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超越としてのシンギュラリティ [本]

 最近、新書と言えばAIに関するものばかりを買って読んでいる。今年になってからも、もう5冊くらいは読んだ。

  • AIは「心」を持てるのか(脳に近いアーキテクチャ) (ジョージ・ザルカダキス)
  • シンギュラリティ(人工知能から超知能へ) (マレー・シャナハン)
  • 人類を超えるAIは日本から生まれる (松田卓也)
  • 記憶の森を育てる(意識と人工知能) (茂木健一郎)
  • シンギュラリティは近い(人類が生命を超越する時) (レイ・カーツワイル)

 このところ、ちょっとAIバカになってきていて、これではまずいな思っていたが、最後に書いたレイ・カーツワイルの世界的名著(ポスト・ヒューマン誕生)のコンパクト版を読んでいて、彼の思想家としての一面を見ることができた。

レイ・カーツワイルは「シンギュラリティは近い」(人類が生命を超越する時)の最後の方で次のように書いている。私は彼のこの考えには、全面的に賛成の立場でいる。

 「我々が超越性(トランセンデンス)-人々がスピリチュアリティと呼ぶものの主要な意味ーに遭遇するのは、まさにこの物質とエネルギーの世界においてなのだ。」と前置きをして、

ここから、


 私は物質主義者とずっと呼ばれてきたが、自分では「パターン主義者」だと思っている。我々は、パターンの発現する力を通してこそ、超越することができる。人間の身体を形作っている物質は、速やかに入れ替わってしまうので、持続しているものは、人間のパターンが有する超越的な力に他ならない。このパターンの持続力は、生物体や自己複製テクノロジーといった自己再生システムを明らかに超えている。パターンの力と持続性こそが、生命と知性を支えているのだ。パターンは、それを構成している物質よりもはるかに重要である。

 キャンパスにでたらめに描かれた線は、ただの絵具である。しかしそれがあるべき形に配列されると、素材の物質を超えて美術となる。でたらめに書かれた音符はただの音を表しているが、それが「霊感を受けたように」配列されると、みごとな音楽になる。山と積んだだけの部品はただの在庫品だが、革新的な方法で配列され、おそらくはなんらかのソフトウエア(新たなパターン)が加えられれば、テクノロジーの「魔法」(超越性)が生まれる。


ここまで、

 そして最後に、このパターンの力をこう結んでいる。

 「そしてこのパターンの力は、我々が遭遇する物言わぬ物質とエネルギーを、崇高でインテリジェントなーすなわち、超越的なー物質とエネルギーに転換しながら、外へ外へと拡張していくだろう。それゆえある意味、シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできるのだ。」

by チイ


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意識を持った人工知能は実現するか? [本]

 お盆の前に日本橋丸善で、クリストフ・コッホ著の「意識をめぐる冒険」(英語の題名は、CONSCIOUSNESS Confessions of a Romantic Reductionist)を買って休みの間に大体全部読んでしまった。今年はまだ終わってはいないが、この本は多分今年読んだ本の中でのベスト本だろう。原書の英語版のものは2012年に出版されているので、約2年遅れにはなるが現在手に入る一般向けに書かれた日本語で読める「意識」について書かれた書物では最新にして最高のものだろう。

 コッホは40歳年の違うフランシス・クリック(DNAの二重螺旋の発見者)と長年にわたって脳の意識の研究を行ってきて、クリックが亡くなってからも研究を続けているその道の第一人者。この本を読んで、何故クリックが40歳も年の離れたコッホを共同研究パートナーに選んだのか分かったような気がした。

 私が脳の「意識」の問題に興味があるのは、人工知能で思考するコンピュータを作った場合、それが意識を持たない状態で(人間が行うような)高次の思考を行うことは可能か?という問いに関係している。私は思考するマシンはまず最初は、意識を持たない、所謂ゾンビマシンとして開発されると思う。意識をもってないからといって、そのマシンが思考を行えないわけではない。人間の脳もかなり複雑な思考も含めてそれらの多くは無意識の状態で処理されている。現行のベイズ統計を使ったモデルの延長線上のものでも、たとえば東大君(東大の入試に合格するくらいの知能を持ったマシン)のようなものは十分開発可能だと思う。その場合、そのマシンは無意識か、意識はあっても雑音程度のもので、とても人間の意識の高さとは比べられるようなものではないだろう。

 要は、思考の範囲が予め決まっている中での複雑な応用みたいな問題はそれでも解けるのだろう。しかし、第一線級の学者が行うような高次に統合された思考、たとえば、それまでどこにもなかったような全く新しい分野を創造するなどの思考はやはり意識を持たないと無理のような気がする。(このへんはまだはっきりと分かっているわけではなくて、ひょっとしたらゾンビマシンでも全てOKということもありえるかもしれない。)ただこれは作曲などで考えてみた場合、人間が感動する全ての作曲パターンをコンピュータに教えておいて、それでもって生身の人間が作曲する交響曲以上の傑作をマシンが作れるか?ということを考えた場合、マシン自身が意識を持っていて自分の作る曲に耳を傾け感動するということ無しにそのことが行えるか?いうのはかなり疑問だ。いずれにしても間違いないのは、いずれ思考するマシンはゾンビマシンのようなものから、人間のような意識を持ったマシンに開発段階がステップアップしていくだろうということです。

 この本には、それに関係してコッホが期待を寄せる、ジュリオ・トノーニの意識の理論「統合情報理論」(Information Integration Theory of Consciousness)も紹介されている。コッホは現時点では、意識に関してはある種の汎心論(panpsychism)的な考え方を支持していて、創発や還元主義では説明できないという立場を取っている。この理論は簡単に言ってしまうと、全体として統合された情報量Φ(それが意識レベルになる)をどれだけ多く持てるかが意識の高さになるといもので、これからの人工知能開発はこのΦの大きな処理システムを作ることが重要になるだろうと言っている。ティム・バーナーズ=リーの提唱するセマンティック・ウェブやスモールワールド・グラフなどはその代表例です。(トノーニの理論の概要は下記の文献(1)に、その数学的な側面については文献(2)に書かれています。)

 本書の内容はこれ以外にも、意識の「ハード・プロブレム」、クオリア、意識の神経相関(NCC)、無意識、自由意志、意識メーター、科学と宗教の関係など実にさまざまだ。また無意識と意識の関係など、演奏家やアスリートなどが知っておいたほうがいい脳の機能など内容盛りだくさんです。意識の問題はつい最近まで科学が扱うべき対象(領域)ではない(実際に今でもそう思っている科学者、哲学者はたくさんいます。)と言われていた分野なので、まだまだ哲学的な形而上学的な話も多くて頭の悪い私には読みずらいかなと?と思っていましたが、その内容の面白さとコッホの文章のうまさで私でも比較的すらすらと読めました。現代人の必読書といったところだろうか?

文献(1) 

http://www.biolbull.org/content/215/3/216.full.pdf

文献(2) 

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2386970/pdf/pcbi.1000091.pdf

 

consciousness.png クリストフ・コッホ(著)、岩波書店

by チイ


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リサ・ランド―ルの新書~宇宙の扉をノックする~ [本]

 リサ・ランド―ルの新書「宇宙の扉をノックする」(Knocking On Heaven's Door)が出版されたみたいです。私は早速、Amazonで注文して購入しました。(Kindleのペーパー・バックの洋書では、1000円以上安い値段で購入できるみたいです。英語の得意な方は、是非、原書で!!)CERNのLHCの実験では、まだ彼女が提唱していた余剰次元が見つかったというような話は聞いていませんが、今回のものには、その辺の実験装置も含めた将来の展望についても書かれてあるみたいです。年末から年始にかけての読書にぴったりなのではないでしょうか?

 前書の「ワープする宇宙」も出版されると同時に、名著だということで、WASP系の大学ではすぐに配布されて、文系の最新の物理のテキストとして使われたらしいですが、この本もまたそうなるのかな?文系のテキストといっても、こちらの方が、大学入試で300年以上も前のニュートン力学にも達してないようなレベルでウルトラ・クイズを解かされている日本の受験生よりは、はるかに現代人に必要な教養は身に付けられるとは思うのだが。(実際、数式は全然使われていませんが、私などはある程度の数式が書かれてあった方が読み安いです。)

 最近、自分の英語力の無さには情けなくなってしまうことが多い。どんな分野であろうが、世界の最先端の知に直接触れるためには英語は不可欠のツールだ。実際、読みたい英語の文献は山のようにあるのです。人工知能の、「ディープ・ラーニング」や「スパース・コーディング」の文献、グーグルの「分散コンピューティング」関連の文献など、読まなければいけない資料はたくさんあるのですが、なかなか量がこなせなくて。私の場合、コンピュータで実際にコーディングをはじめてしまうと、もうそれにほとんどの時間を取られてしまって、英語の文献から知識を得る作業が止ってしまうのです。本当は、両立させないといけないのは分かっているのですが、やはり自分の能力のキャパシタンスの問題なので如何ともし難いところがあって。千ページくらいのボリュームのものを1週間ほどで読み切る英語力がほしい。

 

41tO8woZ+FL__SL500_AA300_.jpg向山信治、塩原通緒(訳)

by チイ


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リベラル・アーツ [本]

 最近、筑摩書房から、スティーブン・ピンカーの「心の仕組み」(How the Mind Works)が2009年版の文庫として再版になったので、現在一生懸命読んでいる。この本は、上下巻合わせて1140ページ近くになるボリュームだが、ピンカーがサバティカルの期間を利用して、心の仕組みに関心ある全ての人々に向けて書かれてある。

 ピンカーは現在ハーバード大学心理学研究室の教授だが、その教養の広さには本当に驚かされてしまう。リベラル・アーツ(Liberal Arts)と言う意味でも、この本は自然科学、人文科学、社会科学の3つの分野を網羅し包括するような内容となっている。ピンカー自身も意識していて、実際この本の中にも登場するが、所謂文系・理系の両方に精通した学者として有名な人に、言語学者で「生成文法」の理論で有名な、ノ―ム・チョムスキーなどがいる。(ピンカーもチョムスキーもユダヤ人だ。私は人種には全然こだわらない人なのだが、最近ちょっと理由があって、優秀な人については調べるようになったのだが、その7~9割はユダヤ人であるのには驚いてしまう。)これらの人のような、多方面にわたる青天井の知性の持ち主は、大学でのリベラル・アーツの教育では貴重な存在だと思う。

 日本の大学教育も、これからリベラル・アーツをどう扱っていくかが大きな課題になっていくだろう。日本の場合、特に教養課程で、これらの名著と言われる教養書を英語でどれだけたくさん読破するかということになるのだろうと思うが、古典は別として、欧米ではその最先端の教養がリアルタイムでまさに生み出されようとしている大学の環境の中にいれるのは何物にも代えがたい強みだと思う。

 自由七科(Seven Liberal Arts)の中には、四科の一つとして音楽も含まれていて、この本にも「芸術とエンタテイメント」という章があって、その中で音楽のこともかなりのページを割いて述べられている。この本に限らず、欧米のコンピュータ関連や自然科学の啓蒙書の中には実際音楽の話はよく出てきます。古来、欧米では音楽がリベラル・アーツの一つとして既に組み込まれてしまっているからだと思います。

41YWkkugWhL__SL500_AA300_.jpgスティーブン・ピンカー著 : 筑摩書房

by チイ


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クラウドの未来 [本]

 クラウドの未来はこれからどうなるのだろうか?この1月に出版された、小池良次著の「クラウドの未来」を読むとその全貌が垣間見えてくるような気がする。著者は、シリコンバレー在住で、現在米国でリアルタイムでおこっているクラウドの現状を現地発の情報として書き下してくれているので、仮に日本のクラウドがおよそ10年遅れだとすると、私達にとっては約10年後の未来の日本を見ているようなものだ。産業界の人にとっては本当に必読書だと思う。

 著者は、これからのクラウドの展望を含めて、クラウドの発展の段階を①クラウド・コンピューティング(現在)->②クラウド・コミュニケーション(2015年頃)→③クラウド・デバイス(2015年以降)→④クラウド・サービス(2015年以降)の4段階に分けて説明してくれている。筆者は、通信業界を専門としているらしくて、特に②のクラウド・コミュニケーションについては本書の中でも2章に渡って、米国と日本のクラウド時代に向けた通信網の整備と展望について書かれてあって、この辺の知識不足であった私にはとても勉強になった。(NGN(Next Generation Network)、IMS(IP Multimedia Subsystem)、オールIP化、SDP(Service Delivery Platform)、ホワイトスペース、ラスト・マイル、ラスト・フィート、LTE(Long Term Evolution)など日米の電波行政の在り方なども含めて、非常に興味深い内容だった。)

 しかし、日本の産業界の人達にとって一番密接な関係にあるのが③のクラウド・デバイスだろう。日本のハード・メーカーの人達の中には、これからのクラウドのM2M(Machine to Machine)の時代に期待を寄せている人も多いと思うが、筆者は逆に日本の製造業の危機として、「クラウド・ブラックホール現象」をあげている。クラウド・ブラックホール現象とは、クライアント側のハードやソフトの中から、高度な機能を担うアプリケーションが分離して、サーバー側(データ・センター)に集約していく現象を指します。この動きはすでに米国では始まっていて、音楽プレーヤーとして米アマゾンのクラウド・ドライブ(コンテンツの保存と再生機能をクラウド側に分離している。)や放送器機業界の事例として、米カイロンのクラウド・プロダクション(字幕、グラフィックや電子編集システムなどをクラウド側で行う。)など色々な事例が紹介されている。日本の家電メーカーでもクライアント製品のハード・ソフトの一体化ということが言われて久しいが、今後この一体化ということの内容がサーバー側まで含めたベスト・ミックスで考えなければいけない時代になっていくということだと思う。それにより従来のクライアント製品の組み込みシステムもクラウドの影響を受けて今後大きく変わっていくことになるだろう。「専用器機を作って売る」から「高度な機能をサービスとして売る」時代が既に始まっているということだ。筆者は、機能は次のように分離していくだろうとしている。

  • サーバー側  アナライズ(分析)、ロジック(論理化)、アルゴリズム(様式化)、オーケストレーション(協調処理)、ビッグ・データ(巨大情報処理)、オプティマイゼーション(最適化)、パーソナライゼーション(個別化)
  • デバイス側  入出力や表示、機動性、堅牢性などのユーザビリティーとインターフェイス機能

 クラウドの特徴は、超集中と超分散だが、上記のような区分けになった場合、クライアント側(デバイス側)で製品の差別化をしてかつ収益を出していくのは相当大変になるだろう。実際、機能のおいしいところ、重要な部分はどんどんサーバー側に集約されていって、その分デバイス側はよりシンプルで簡単なものになっていくだろうから、価格競争に巻き込まれて、内容的には途上国の仕事になっていくように思われる。20世紀のモノが中心だった時代は、CPUやOSといったような重要なプラットフォームを欧米に握られても、それらが入った製品(モノ)で差別化して対抗していくことができたが、情報が中心となったクラウドの時代、それは非常に難しいということだ。現在、スマートフォンは、アップルのiphoneのおかげで、まだリッチ・クライアントの状態になっている。(筆者も書いているが、スマートフォンのクラウド・デバイスの進化はアップルの囲い込み戦略のおけげで、5年以上遅れたと言われている。)現在のスマートフォンは、端末OSに合わせて作られたネイティブ・アプリになっているが、本来のクラウドの理想形は、OSはウェブ・ブラウザの下に隠れたウェブ・アプリケーションとならなければいけない。今後のHTML5時代の到来や、アップルのiCloudの進化・発展に伴って、端末自体はよりシン・クライアントに移行していくものと思われる。

 2012年度の電機大手(特に弱電メーカー)の3月期連結最終損益の決算は、さんさんたるものだったが、クラウドの発展段階がまだ①の現段階でこのような状況なら、このまま推移すれば、クラウドが完成系に近づいていくにつれ、もうペンペン草も生えていないような状況になってしまうのではないか?自動車も電気自動車の時代が到来すると、充電基地で車を乗り捨て乗り換えて目的地まで行くような、個人が車をもう所有しない時代が到来するのではないかと言われている。電気自動車のレンタカーは途上国が製造して、先進国の車メーカーは、中継基地を繋いだ車の充電管理などをクラウドを使って行うといったようなシステム管理サービスが主な業務になっていくように思われる。もうそんな時代が実際に目の前に差し迫って来ているということなのだろう。

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by チイ


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ものつくり敗戦 [本]

 東日本大震災から早半年以上が経過してしまったが、この半年の間に巷には「3.11からの復興本」なるものが氾濫している。私もご多分に漏れず、何冊か買って読んでみた。ただ、私の場合、その本の要旨や目次にささっと目を通して、絶対に買わないようにしているものがある。

  • モノ作りを賞賛して製造業での被災地の復興を提案しているもの。
  • その本の中身にソフトウエアについての記載が全くないもの。

おどろくことに上記2つの制約で篩いをかけると、現在出版されているほとんどの復興本はバツになってしまうのである。それでもこの半年の間に、あえて何冊かは買って読んでみたのだが、一番まともなことを書いてあるなと思ったのは、野口悠紀雄著の「大震災からの出発~ビジネスモデルの大転換は可能か」くらいだった。ただ、この本もそうだが、製造業に代わって高付加価値のサービス産業を早急に興さなければならないのは確かなのだが、実際どういった戦略でそれを実現させるかとなると歯切れが悪い。特にこれからシステムの中心になっていく高付加価値を生む源泉になるはずのソフトウエアの技術力の遅れは、もうどうしようもない所まで来てしまっているといった感じだ。

 復興本ではないが、一ヶ月くらい前に読んだ本で、上記の2つの条件を満たしているものとして、木村英紀著の「ものつくり敗戦」という本がある。初版は2009年の3月なので、既に2年半が経過していているが、非常に興味深い内容だった。多分、執筆したのは3年前くらいになると思うので、現在世の中を席捲しつつあるクラウドコンピューティングのことなどは書かれていないが、日本の国産「第5世代」計算機プロジェクトのことなどについても書かれてあって面白かった。簡単に筆者の論点を要約すれば、これからの技術は、「理論」、「システム」、「ソフトウエア」が中心になっていくが、日本のものつくりはこれら3つが大の苦手科目であって、このままではやがて技術の主導権を失って、ものつくり敗戦になってしまうだろうというような趣旨だ。(この3年間のアップルの躍進をみるにつけ、筆者の予想は当たっているように思う。)

 ただ、私は、この本の中で、上に書いたメインテーマ以上に、以下の3点に自分の興味が移ってしまった。(ちなみに、筆者は、筆者が言うところの第三の科学革命の成果のひとつである、制御理論の専門家である。)

(1)筆者の論点によれば、戦後の日本の科学技術が欧米に遅れを取った要因に、「第三の科学革命」を基盤にしなかったことを挙げている。筆者によれば第三の科学革命とは、自然科学にその基礎を持たない、人工物を対象とする科学のことだ。自然科学に基礎を持たないので、工学の理論がそのまま基礎になる。(いわゆる自然科学の応用として工学の理論があるという考えではないのだ。)私は、筆者の言うところの大量生産、大量消費が生んだ人工物の複雑さや不確かさの基礎になる自然科学は「複雑系の科学」だと思っているのだが、どちらの考え方が正しいのだろう?ただ、思うに、現段階で複雑系の科学はまだ残念ながら、本当の意味で、科学足り得ていない。(まだ、新しい小道具をパッケージ化しただけの前科学の段階ということなのだろう。)逆に、そういう状態でとりあえず技術として可能な範囲で走っているわけなので、ある種の危なっかしさのようなものを感じてしまう。複雑系の科学者は、もっと頑張らねば!!

(2)もうひとつは、上の3つの中の「理論」に関することで、筆者は、理論が重視されない日本の工学研究の風潮に、数学の停滞を挙げている。最近文化省の科学技術政策研究所が「忘れられた科学―数学」という興味深いレポートを出したそうで、それによると論文シェアでは、主要国中最下位(世界第20位)で、加えて他分野に比べての実績が相当に低いらしい。実際、アメリカなどでは、金融工学やコンピュータサイエンス、最先端のソフトウエアの分野などでは、数学者は引っ張りだこの状態だと思うのだが、日本では世界的に通用するような人材であっても、予備校で東大や京大といったところの受験の数学を教えるような仕事しかないのが現実なのだろう。これからの時代、筆者が言うような技術トレンドになるなら、ある程度大きなプロジェクトには、数学者もエンジニアとして加わってもらって、そのシステムの理論を作ってもらうような仕事の仕方に本当はならなければいけないのだろう。今の日本の数学の停滞は、そのままソフトウエアの停滞に繋がっているように感じる。日本の数学者も、純粋数学だけではなく、数学が使われる隣接の科学分野にもっと積極的に出て行って仕事をすべきなのだろう。それが繋がりの時代ということだ。

(3)筆者は、日本の技術の特徴として、日本の労働集約型技術が、産業革命での「道具」から「機械」への本流のパスに逆の流れの、「機械」->「道具」のフィードバック・ループを付けたとしている。同様に第三の科学革命の「機械」から「システム」への本流のパスに逆の流れの「システム」->「機械」へのフィードバック・ループを付けたとしている。米のメジャーリーグで、野茂がそれまで忘れられていた変化球のフォークボールを彼らに思い出させたことや、イチロウがパワースラッガー全盛の時代に、昔のオールドベースボールのスタイルを彼らに思い出させたこととも、何か似ているような気がする。(余談になるが、清水博著の「生命を捉えなおす」の中に、生命が本質的に創造的な存在であることには、フィードフォワード・ループが重要な役割を果たしていることが書かれてある。日本はフィードバック型の社会であるのに対して、欧米型社会はフィードフォワード型社会であるということだ。)こんな所にまでも、その民族の特性が科学的知見に裏付けられて出てしまうことにあらためて驚かされてしまった。

by チイ


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FREE(フリー) [本]

 クリス・アンダーソンのフリー~<無料>からお金を生みだす新戦略~を既にお読みになった方も多いと思う。アンダーソンは「ロングテール」の著者としても有名で、そのバックグラウンドは物理屋さんで、世界的科学雑誌である「ネイチャー」と「サイエンス」誌に勤務後、現在「ワイアード」誌の編集長を務める人物である。本書も2010年代を生き抜くのに欠かせないビズネス書として、世界的なベストセラーにもなっている。

 最初にフリーの形態を4つに分類して説明してくれている。

  • 直接的内部相互補助 ・・・ フリーでない他のモノを販売し、そこからフリーを補填する。
  • 三者間市場 ・・・ 第三者がスポンサーとしてお金を支払うけれど、多くの人々にはフリーとし                        て提供される。
  • フリーミアム ・・・ フリーによって人を惹きつけ、有償のバージョン違いを用意する。これには                         典型的なオンラインサイトの五パーセント・ルールがある。
  • 非貨幣市場 ・・・ 贈与経済、無償の労働、etc。

 今日のフリーについてアンダーソンンの考えを整理すると、

  •  21世紀のフリーは、モノの経済であるアトム(原子)経済ではなく、情報通信の経済であるビ   ット経済にもとずいている。アトム経済はインフレ状態だが、ビット経済はデフレ状態である。
  •  ビットの経済ではテクノロジー(情報処理能力、記憶容量、通信帯域幅)の限界費用は年々   ゼロに近づいているので、低い限界費用で複製、伝達できる情報は無料になりたがり、限界    費用の高い情報は高価になりたがる。
  •  多くのアイデア商材の価格は引力の法則ならぬ、フリーの万有引力に引っ張られ、それにつ   いては抵抗するよりも、むしろ生かす方法を模索せよ。そして、潤沢になってしまった商品の       価値はほかへと移ってしまうので、新たな希少を探してそちらを換金化するべきだ。

 この本で一番面白かった所はムダについての考え方だ。この発想は日本人にはなかなかできない。次のように書かれている。「今日の革新者とは、新たに潤沢になったものに着目して、それをどのように浪費すればいいかを考えつく人なのだ。うまく浪費する方法を。」また次のようにも言っている。「潤沢さの持つ可能性をとことんまで追求するためには、コントロールしないことだ。」例として、前時代―トランジスタが豊富性だったとき―の勝者をビル・ゲイツとし、「トランジスタを浪費」したことにより勝利したと述べている。今日ではトランジスタ→インターネット、ビル・ゲイツ→グーグルというわけだ。

 グーグルにしても技術的に特に凄い事をしているわけではない。使っている手法は古典的なアルゴリズムだが、それを実現するために何百万台といったサーバーを投入する決断ができる経営者は少ない。しかし、その決断はアンダーソンが言っているように、科学や今日のビットの経済学に裏付けされたもので、そこには規模の経済の法則が成り立っている。よく日本の経営者の中に、欧米に勝手に経済のルールを変えられたという人がいるが、これはある意味必然の流れとも言える。

 20世紀はコモディティーだった資源を無駄使いして、特に日本はハードの応用製品で、面白いモノを作れば売れて経済を成長させることができた。しかし、今では半導体のシリコンなどは別にしても、アトム経済はインフレ状態だ。今日、日本が昔のやり方でうまくいかなくなったのは、ある意味当たり前の話で、それはビットの経済の潤沢性を活かしきれてないためだ。それでも、あくまでも希少なレアアースやレアメタルなどのアトムの資源を潤沢に使いたいのであれば、昨今の中国のような戦略を取るしかない。日本にとっては迷惑な話だが、モノ好みの中国としては、それを調達するために、ごく当たり前の戦略を取っているだけのようにも思える。

 また、本書では、新しいフリーの経済圏をいちはやく体現しているモデルとして中国、ブラジルの音楽ビジネスの事情についても語られている。(中国では不正コピーが音楽消費の95%を占めると推定されている。また中国では音楽に課金した瞬間に、99%のリスナーを排除することにもなる。)それでも中国でもブラジルでもそのフリーの周りで換金して、ビジネスとして成り立っているのだ。フリーの最先端に興味のある方は是非御一読を。

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by チイ


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大不況で世界はこう変わる! [本]

 ”ミスター円”と呼ばれた国際エコノミスト、榊原英資氏による経済予測。この本、まだ一般書店では販売されてないかもしれませんが、この週末に読んでみました。私は元来、株とかもやらない人で、また日本人の大好きな「経済」や「マネージメント」といったようなことにはほとんど興味がない人なのだが、最近、今後の地球環境のダイナミクスに与える影響という観点から、今後の世界の経済活動には着目している。経済なんて自分には関係ないよと思われている人でも、今後の世界経済の発展のしかたによっては、自分の孫の代にあたるころから本当に地球上で暮していけなくなる可能性もあるので、興味のあるかたには是非関心を持っていただきたいと思う。

 ところで、読んでいてびっくりしたのだが、私が今年に入って書いたブログでいくつか自分の意見を書いた内容とほとんど中身が同じというか、言葉までぴったりとあっているのには大変驚いてしまった。これは決して自慢ではなくて(<-お前みたいな経済のど素人に分かる訳ないじゃないか、バカ!)、思うに、私が経済にはほとんど興味がないので、へんな気負いとかが入らないで物事を客観的に見れているためだと思う。

 ところでこの大不況は一般的に言って、解明はそう難しくないが、具体的な解決は困難な不況だ。前半の方の要点をまとめてみると、

  • この世界同時不況は深く長い不況になる。
  • 20世紀型資本主義が終わる。
  • 先進国での”モノ”離れが加速し、”モノ”が売れなくなる。
  • モノづくり(製造業)が落日を迎える。
  • ハイテク製品のコモディティー化と資源・エネルギーの高騰。

一番重要な点は、先進国はすでに”モノ”にあふれていて、”モノ”離れが加速していっているということだ。(これは先進国での中間層が消滅していっていることとも関係している。売るためにはこれから大量の中間層の出現する発展途上国で売るしかない。)したがって、この大不況のトンネルを抜けた後も、先進国で車や電気製品が以前ほどは売れなくなるということだ。製造業を続けていくためには、発展途上国で売っていくしかないが、そこでは性能より価格が第一優先されるため、発展途上国の製造業の安い製品との競争となり、実質泥試合となりそこで勝利してもほとんど意味のない戦いとなってしまう。いずれにしてもこれから先進国で製造業で稼ぐは非常に難しい時代になってくる。

後半の要点をまとめると、

  • 環境・自然・安全・健康・文化・教育が21世紀のキーコンセプトになる。
  • グリーン革命がおこる。
  • 農業・医療と介護・教育・娯楽が成長産業となる。
  • 日本の江戸時代に回帰する。

後半の方は、読んでみましたが、いまいち説得力に欠けるような気がしました。それはある意味当然のことで、20世紀型資本主義の次に来る21世紀のパラダイムシフトは実際にどういうものになるか本当のところまだだれも分かっていないのだと思います。環境(エコ)や農業が本当に産業になるの?といった疑問も生じます。逆に言うと、だからこそこれからその枠組みを自分たちで自由に作れるチャンスがあるということにもなると思います。

 ここからは、私の勝手な意見・・・

 この先世界経済はどのような形態をとるのだろうか?

  • 成長しないで、ただぐるぐる回る(循環する)だけの経済。
  • 循環を基本に、螺旋階段を上るように少しずつ成長していく経済。

のどちらかになるような気がします。ここには書きませんでしたが、20世紀型の右肩上がりの線形な経済成長はもう駄目です。発展途上国を含めて、今後これをやってしまったら、人類は滅亡してしまいます。後、2~3世代くらいで地球上の全ての資源を食い潰し、孫くらいの代から破壊された地球環境と戦争の時代を招いてしまいます。そういう意味でも現状の世界経済の立て直しが、今後の過度の経済成長を期待したプログラムになってしまっていることがすごく気になります。(国の財政赤字の借金も結局、子供や孫の世代のツケに回してしまうことになるのでしょうか?)

 ここで、ちょっと脱線・・・

 実は、私は格闘技大好き人間(<-何故そんな人がクラシックの音楽サイトなんかやっているのかもよく分からない)なのだが、もう亡くなってしまったが、若い頃に読んでいたマンガで、空手の大山倍達がアメリカでのレスラー、ボクサーとの他流試合で連戦連勝で帰りにちらっと立ち寄った香港で太極拳の老人との手合わせで生涯初の敗北をきすることになる。その時言われた言葉が、「あなたの拳法は確かに強いが、直線の拳法だ。太極拳の奥義は点を中心に円を描くことにある。」というもので、それをきっかけに格闘技での円の動きの優位性ということに目覚めるというものがあった。経済もそれと同じ段階に今さしかかっているのだろう。

 ここからは、真面目な話・・・

 今、経済がこのような段階にさしかかっていることは決して偶然でもなんでもない。科学的な観点からも、要素還元論的な線形的な加速から、要素間の相互作用による全体の系のダイナミクスという方向に焦点が移り始めている。これは21世紀のキーコンセプトとも一致している。いわゆる、「物質的モノ」から「生きているモノ」への視点の変化だ。先ほど、21世紀のパラダイムシフトがどういうものになるか本当のところはまだだれも分からないと書いたが、そのことは「複雑性の科学」がまだ科学として完成していないということにも関係している。これが完成されると、多分、経済学、社会学、生物学などの色々な方面についてもある程度具体的な形式化ができるようになると思う。私自身、21世紀の大きなブレーク・スルーとしては、20世紀の成果である要素還元論的な物質の特性と、それらが織りなす系のダイナミクスの2つの組み合わせで新たな産業が生まれてくるような気がする。それが環境ビジネスと呼ばれるものになるかどうかは今のところよく分からないが。

 日本は、20世紀の要素還元論的な線形加速の最後の部分的加速だけ行って成功してきた。今その部分加速してきた全体の加速そのものが見直される時期にきているのだということを認識する必要があると思う。今企業でこの部分的加速で一番成功した比較的若い人をトップに据えて、この危機を更なる部分的加速で乗り切ろうとしているような会社は、早々に潰れてしまうだろう。この不況を構造的な不況ではなくて、従来の循環型の景気悪化と捕えて、昔の成功パターンを再び繰り返す愚は避けた方がよい。多分、これから大手含めてかなりの数の企業が潰れていくことになると思うが、過去のこの部分加速の成功体験の大きい会社から先に潰れていくことになると思う。

 「応用」ということについてもこれからは日本は少し考え直した方がいい。20世紀の資源・エネルギーがコモディティーだった時代は、後追いで、売れ筋のモノを横展開して、生活に応用したモノが面白いように売れた。その結果日本企業がつくるものは「応用の質」が低下してしまって、女子供の使うような本来あまり重要でない、どうでもいいような製品ばかりになってしまった。しかし、これからは資源・エネルギーの希少化に伴い、応用も本当にそれが技術の必然としてそこに絶対になければいけないような優れた応用製品しか売れなくなると思う。少し前にこのブログでも「クラウド・コンピューティング」の記事を書いたが、クラウドはメインフレームにはじまるコンピューターの技術の変遷の中で、必然的に必ずそこに来るべきものとして登場している。今まで、日本はこういった本流の本質的な仕事が苦手だった。しかし、これからは、今の発展途上国の環境問題に顕著なように、後追いでは制約がかかってきて、何もできなくなってしまう傾向にある。本当にオリジナリティーを持って、一番最初にブレークしたもののみが利益を享受できる時代になってきている。そういう意味でも日本にとっても大きく変わらないといけない機会が到来したと考えるべきだ。

10557.jpg 榊原英資著 : 朝日新聞出版

by チイ


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ロハスの思考 [本]

 3月の終わり頃に福岡伸一氏の「動的平衡」刊行記念トークセッションが川上弘美さんを迎えて新宿の紀伊国屋サザンシアターで行われたので行って来た。その際に受付で販売されていた両氏の書籍の中に、「ロハスの思考」という題名の単行本があったので買ってみた。

「ロハス」という言葉をご存知だろうか?LOHASとはLifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字をとった言葉で、直訳すると、「健康と持続可能性に配慮したライフスタイル」ということになる。

ロハスとは、ある種の思想革命である。つまり、これまで私たちを支配しようとしていたファストフードという名の加速、あるいはグローバリゼーションという名の均質化に対するパラダイムシフトである。線形的な加速から、円形的な循環を模索する思考といってもいい。言い換えるなら、閉じられた志向を開く思考である。

ロハスの思考には内在する2つの軸がある。y軸はエゴとエコ。x軸はファストとスローである。ロハスとはエコでスローなこと、とはただちにはならない。ロハスのy軸は、ややエコ寄りながらエゴの部分もある、という領域に座標をおくことになる。一方のx軸も、完全にスローには偏らず、スロー寄りながらファストも含む、というポジションになる。

要約すると生命を含めたこの自然界は、大きな動的平衡の流れの中にある。その中で人為的で線形的な加速操作が加えられると、確実に、この平衡と流れを乱すことになる。なるべくならこのような負荷を環境に与えないようにして、ファストな加速はこの動的平衡系を大きく乱さない程度のものにとどめるべきとするものである。加速には余分なエネルギーが必要で、環境のどこかでそれ以上のエネルギーが失われている。一方、加速したことによって出現した効率は、環境のどこかでそれ以上のつけを払わなければならない。私たち自身が確実に環境から揺り戻しを受けることになる。

 今の世界金融危機からの景気回復の議論にしても、早期の経済のV字回復だけが焦点になってしまっていて、そこにはあまりLOHAS的な思考は見て取れない。(もちろん、アメリカのグリーン・ニューディールのようなエコ産業の推進のようなものもあるが。)早期に経済がV字回復して今まで以上の線形的な加速で先進国及びBRICsの国々が経済成長すれば、地球数個分のエネルギーや資源が必要になることは既に分かっている。今度は、あっという間に、実体経済の方でも資源、エネルギーバブルがはじけてしまう。おまけに今の地球環境は、今後の地球規模の人口増加にともない、大幅な食糧や水の供給力不足になることも分かっている。否が応でも、循環型の経済に移行していかないといけないのは明らかだ。少なくとも、欧米の人たちはそのことに既にもう気付きはじめている。

今後、アメリカの自動車産業がどうなるかはまだこれからだが、私は今回のビッグ3の結末で、20世紀型の大量生産、大量消費の時代は終わりを迎えると思う。(大量生産そのものがなくなるという意味ではなくて、資源、エネルギーが無尽蔵にあるという前提での大量生産、大量消費がなくなるという意味。)今後、車は以前のようには売れなくなるだろう。(電気自動車のようなエコカーを作っても。)また日本のAVに代表される家電製品も以前のようには売れなくなるだろう。客に買わせるための多くの不要なフォーマットや、ちょっとした機能や差別化を図った新製品の類は、今後は売れなくなっていくだろう。V字回復して、今まで以上に加速して今回の損を取り返してやろうなどと考えないことだ。それを目論んでいる企業は多分、今後手痛いしっぺ返しを受けることになると思う。

いずれにしても今は循環型経済に向けた、産業構造の変革の過渡期だ。アメリカの自動車産業のように、この時期に必要のないもの、規模を縮小しなければいけない産業は人を減らして、循環型経済に向けた新しい産業に人をシフトしていけばよい。逆に今のこの時期に日本の自動車産業や、電気大手などは産業の構造改革が行えないで、後々不要な人をたくさんかかえてしまって、この変化に乗り遅れてしまうのではないか?先にも書いたように、20世紀型の大量生産、大量消費時代の終わりで、今後、日本の自動車産業や電気大手の人員は、大幅削減になるだろう。若い人や力のある人、アイデアのある人は独立して新しい産業を興せばいい。

 805.jpg   福岡伸一著 : ソトコト新書 

by チイ


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動的平衡(Dynamic Equilibrium) [本]

 2月に近くの本屋で、福岡伸一著の「動的平衡~生命はなぜそこにやどるのか~」を見つけてすぐに買ってしまった。このブログでも以前に御紹介した、「生物と無生物のあいだ」(2007-12-22)の続編で、「動的平衡」ということに焦点をあてて書かれてある。私はこの人の書く文章というか、ものの考え方が好きである。氏の著作を読むと、「生命」ということについての認識、理解がまさに「目から鱗」状態になってしまう。

「生物と無生物のあいだ」は、昨年の東大、京大生が読んだ本のベストセラー1、2位になっている。ちなみにもう一冊は、外山滋比古著の「思考の整理学」が選ばれていた。頭の良い人達が読んでいるからどうこう言うわけではないが、できれば御一読をお勧めします。

「生物と無生物のあいだ」の中で氏が問うた、「生命とは何か?」の答えのひとつが、「生命とは自己複製を行うシステム」である。この発見は、従来の科学の王道ともいうべき、デカルト主義的な「要素還元法」や「記号論理」の考え方に非常に良くマッチしていたため、これにより20世紀の分子生物学は飛躍的な進歩を遂げることになる。現在注目されている、ES細胞やiPS細胞などの研究もこの路線の延長線上にあるといってもいい。

一方で福岡氏が強くおしている、もうひとつの答えが、「生命とは、動的平衡にある流れ」である。こちらの方は残念ながら、科学でまだ完全に扱える段階にまでは至っていない。それを支配している原理は、熱力学の第2法則「エントロピー増大の法則」ではあるが、そこに働いているものは、非線形、非平衡開放系、散逸力学系などの21世紀の新しい科学として期待される複雑性の科学である。前のものが「命をもたないもの」を扱うのに対して、こちらは「生きているもの」を扱う科学である。

福岡氏は言う、

「生命とは、分子の流れの淀みである」と。

「そして、ここにはもうひとつの重要な啓示がある。それは可変的であり、サスティナブル(永続的)を特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは「構造」ではなく「効果」なのである。」

AI(人工知能)の研究者の中には、「強いAI論者」と言われる人達がいる。コンピュータに知能のような人間の特徴を持たせるのに、上記記述の前半の「記号論理」を突き詰めていけば、それが実現可能になると信じている人たちである。実際に、「アセンブラー」や「コンパイラー」などのコンピュータ・サイエンスの基礎を勉強した人なら「記号論理」の威力や美しさなどで、一瞬それが可能であるような錯覚に陥る。しかし、現状それがうまくいっていないことを考えると、多分そこには何か重大な見落としがあるに違いない。福岡氏が言うところの「動的平衡」に相当するものをAIの論理のもう一方の柱としてうまく組み込む必要があるのだろう。ニコラス・G・カー著の「クラウド化する世界」の最後の方にグーグルの創業者のプリンとペイジがグーグルの将来について話すたびに、「グーグルは人工知能になる」と言い張ると語っている。さすがに、彼らは正しい方向を見ている。今アメリカはビッグ3が全滅して、自動車産業が駄目になりかけているが、近い将来、グーグルのインターネット技術、MITのロボット工学、複雑性の科学の3つがシンクロしてAIの新しい産業がブレークするかもしれない。私自身はITの次は必然的にAI産業にシフトしていくと考えている。

著書の中で、氏は自然や生命は非線形な現象であると言っている。そうすると、その生命活動が作り出す経済活動も本来は非線形な現象であるはずだ。最近、この世界金融危機や今後のことも考えて経済学関連の書籍を何冊か読んでみた。現在の経済学では、バブルを扱える経済学というものはないそうである。全ての経済学が右肩上がりの線形な経済成長というものを前提に作られており、バブルはそこで扱う想定外のものとして登場する。生命現象という観点からすると、本来右肩上がりの線形な経済成長というのが異常なものであって、その結果として非線形なバブルが時々顔を出す。ほとんどの人がバブルは悪いものだと思っているが、バブルが生命現象にそぐわない直線性を循環性に置き換えているともいえる。将来、複雑性の科学が完成したおりには、バブルをメインで扱える非線形の経済学というものが登場しているのだろう。日本が世界に先駆けてこの新しい経済学の構築に着手できたらと思う。

世界が、現在の世界金融危機のトンネルを抜けた時、そこには金融危機前の世界とは大きく違った世界の風景が広がっているはずだ。日本は、連続的にゆっくりと変わろうとする。しかし、世界は不連続に変わる時は一気に変わる。

 

410bTu3IyaL__SL500_AA240_.jpg福岡伸一著 : 木楽舎

by チイ


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