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文明としてのクラシック音楽 [音楽]

 ソチ冬季五輪が終わってもうすぐ1ヶ月が経とうとしているが、ソチ五輪の開会式や閉会式のセレモニーを見ていてふと思ったことがあった。前回の夏のロンドン五輪もそうだったが、最近はセレモニーの中でその国の成り立ちから現在に至るまでのその国の歩んできた道のりを、歴史絵巻のようにしてプレゼンすることが多い。その中で、それに合わせてその国を代表するクラシック音楽の作曲家の曲が流されることが多い。今回ではチャイコフスキーやラフマニノフの音楽が流されていた。

 ロシアと言えば、チャイコフスキーの3大バレー音楽やラフマニノフのピアノコンチェルトなどは世界中のだれもが知っている曲であって、それらの曲を聴くとすぐにロシアを思い出す。閉会式の最後の方では、次の冬季五輪の開催地である平昌(ピョンチャン)の韓国を代表する民謡のアリランが演奏されていた。

 それで思ったのは、6年後の東京オリンピックで日本の歴史を紹介する際に、日本を代表するクラシックの曲で、世界中のだれもが知っている曲を選ぶとすると何の曲になるのかな?ということだ。日本を代表する作曲家といえば、多分一番有名なのは「武満徹」あたりになるのだろうが、私自身彼の曲についてほとんど知らない。多分流すとすると韓国と同様に日本の有名な民謡のいくつかを流すくらいしかないのかな?とも思ったリもした。

 別に世界中の人がだれでも知っている日本の民謡でもかまわないのだが、何故か寂しい気持ちになってしまった。たとえば、西欧諸国の中では、ロシアはヨーロッパの周辺国(辺境の地)である。クラシック音楽も100年くらい遅れて伝わったが、チャイコフスキーやラフマニノフを生み、また他の周辺国でもポーランドはショパンを生み、ハンガリーはリストやバルトークを生んでいて、それらの曲は世界中の人が知っている。日本にもクラシック音楽が入って150年近くになるが、世界中のだれもが知っている日本を代表する作曲家の曲が無いのは悲しい気がする。

 これは別の言葉で言えば、日本や韓国には「文化」としての音楽はあるが、本当の意味での「文明」としての音楽は無いということなのかもしれない。(茂木さんが昨日のツイートで文化と文明ということについて書いていたので、その言葉に当てはめてみました。)やはり、最も普遍的な音楽であるクラシック音楽で、しかもオーケストラ曲やオペラやピアノコンチェルトといった大作で、世界中のだれもが知っている日本を代表する作曲家の曲が無いのは寂しい。

 最近、佐村河内氏のゴーストライターとして新垣氏が登場して来て注目を集めたが、芸大や桐朋を出た作曲家で、いい曲を書いている人はたくさんいるのだろう。また、中にはそれこそ20~30年に一人と言われるような逸材も何人かは出てきているはずだ。しかし、それでも世界中のだれもが知っているクラシックの大作曲家のクリエーターとしてのレベルにはまだ達していないということなのだろう。

 糸川英夫が、日本は2次電流ばかり流れて、1次電流の流れない国だとよく言っていた。音楽もこの状況と全く同じで、「日本にはクラシック音楽が入って、150年が経とうとしているが、日本にはバッハやベートーベンを上手に演奏できる人はいても、バッハやベートーベンを超える音楽家(作曲家)は出てこない。」と言っていたことを思い出す。

by チイ


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コメント 1

素人ですが

アリランや民謡は文明では無いと言われるのでしょうか。私は楽理的なことは分からず日常的にはクラシックしか聞かない素人ですが、このような言説は不快に感じます。先生が民謡のことを良くご存知の上の批判なら分かりますが。
民謡も邦楽もとても美しいと思います。堂々と民謡やお琴、琵琶を演奏するべきでしょう。耳のある人は感動してくれると思います。西洋中心主義は20世紀で廃れたと思っていましたが音楽では亡霊がまだ生きているのでしょうか。欧米の教養ある人と話して最も嫌われるのが西洋中心主義です。アジアの文明を卑下したら、多分彼らの方から顔を真っ赤にして反論されますよ
by 素人ですが (2014-04-05 08:57) 

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