SSブログ

プレステのビジネスモデル [製品]

 この22日にPS4が日本でも発売になった。私はもともと据え置きゲームも携帯ゲームも、ゲームは全くやらない人なので、ゲームビジネス自体には何の興味もない。ただ、ゲームをビジネスモデルとして見た場合、これから訪れるであろう、家電や自動車を含めた日本の産業上の将来の重大な問題を内包しているように思えてならない。 

 PS(プレステ)のビジネスモデルは、基本的には「ハードウエア・プラットフォーム」を中心に据えたビジネスモデルである。つまり、据え置き型という高性能のハードウエアのゲーム機ををユーザに所有させて、そのマシン上で動くゲームソフトをソフトベンダに作ってもらって、そのソフトのロイヤリティーで稼ぐというビジネスモデルだ。この基本路線は初代PSから現在のPS4まで変わっていないが、前回のPS3では開発費に1兆円近くのお金をかけて、ハードウエアの性能をスパコン並みにしたマシンを作ったが、ビジネスとしてはうまくいかなかった。

 PS3が出てくるまでは、まだ一般的に「クラウド・コンピューティング」という言葉や概念はそれほど普及していなかった。PS3はもともとはゲーム機だけではなく、リビング内の他のソニー製品とネットワークで繋いでサーバーマシンとして使ったり、他のPS3マシンとの間で処理を分散して行うようなやり方も想定されていたが、実際に実現されることはなかったし、今の段階ではそれらの多くの処理は個人がスパコン並みのハードを所有してやるよりは、クラウド側の処理に任せた方が優れていることが分かっている。結果としてオーバー・スペックな何に使われるか分からない高価なマシンだけが残った。

 ソニーでは昔からハードとソフトのシナジー(相乗効果)ということがよく言われていたが、この場合のソフトの定義が問題をさらに見えにくくしていた。それまでソニーではソフトとは、音楽や映画のコンテンツやゲームソフトなどのコンテンツを意味していたからだ。しかし、本来コンテンツはデータであり、本当の意味でのソフトウエアではないし、実際にアップルやグーグルはコンテンツは所有していない。シナジー効果に本当に必要なソフトウエアの意味を最初に明らかにしてくれたのはアップルで、現在ではそれはクラウド側の「ソフトウエア・プラットフォーム」になってしまっている。

 PS4では買収したGaikaiを使って、「クラウドゲーミング」もできるようにする予定らしいが、今のPSNの充実や拡張などを含めて、ソフトウエア・プラットフォームを中心にしたビジネスモデルに転換していきたいなら、本体のハードの設計などは全部外部に出してしまって、主力全てがソフトウエア設計に移る(それができるかどうかは別にして)くらいの覚悟でやらないと成功はおぼつかないと思う。PS3の失敗で、ハードウエア・プラットフォーム路線ではもう先が見えているし、また両方を追うようなスタイルでは、米IT列強のソフトウエア・プラットフォームの進化のペースにはとてもついていくことはできないだろう。後、専用機のゲームソフト(だれにでも作れるものではない)のコンテンツの特殊性も考慮に入れないといけないので、そのビジネスモデルはどうしても複雑なものになってしまう。

 考えてみれば、今日本の産業界の歩んでいる道は、戦中(第2次大戦)のそれとまったく同じだ。当時、空母を実戦で使える実用化の段階までもっていけたのは、世界で日本とアメリカだけだった。(それはドイツもソビエトもできていない。)日本は空母を「ハードウエア・プラットフォーム」として完成させただけで、そこで終わってしまった。ハードウエア・プラットフォームとしての空母とコンテンツとしての優秀な戦闘機を有していれば十分だと考えたからだろう。しかし、アメリカはその空母を「ソフトウエア・プラットフォーム」の領域まで進化させていた。結局はその差が戦局の勝敗を分けることになった。

 日本の家電メーカーで重電や大型計算機(メインフレーム)をやっている会社は、多分これから復活していくだろう。エネルギー関連のインフラ輸出の需要は伸びてくると思うし、メインフレームのソフトウエアの部隊がこれから一番重要になるクラウド側のソフトウエア開発の戦力になれるからだ。問題はAVなどを中心にやってきた弱電メーカーだ。今の日本の弱電メーカー内部のエンジニアの力関係を考えた場合、アップルやグーグルなどのIT企業のような「ソフトウエア・プラットフォーム」を中心に据えた企業に移行するのは相当に難しいと思う。今のように国がもう古くなっていらなくなってしまった従来のハード部門を引き取って再生事業をやっていると、製造業自体がどんどん体力がなくなって農業化していく。弱電メーカーは全部一度解体して、(必要なら国が再教育機関を準備して)、それから業界挙げて再編成した方がいいのかもしれない。

by チイ


ヒット商品は点から線になった [製品]

 この7月上旬のEUのCERNでの「ヒッグス粒子」と見られる新粒子発見の報から早2か月が経とうとしているが、皆さんはこの報を聞いて何を思われただろうか?私が一番に感じたことは、EUはアメリカと並んで、いまだに「世界の知の中心」であるということだ。今、EUはユーロの問題を抱えて、経済的には火の車の状態が続いているし、経済評論家の人の中にはEUの時代はもう終わって、これからはアジアを中心としたオリエントの時代になると言う人もたくさんいる。確かに経済だけの問題を見ればそうかもしれないが、(私は、ユーロの通貨統合は、結局はドイツの独り勝ちを許してしまって、結局はうまくいかないだろうと思っている。)私はヨーロッパの底力のようなものを感じた。EUはまだまだ終わってはいない。

 今、科学は「物質」を扱う領域においては、科学の王道である「要素還元論的な手法」が大成功を収めて、その究極である素粒子の世界でも成功を収めようとしている。この物理の素粒子の「力の統一」は、数学の世界では同じように「ゼータの統一」として現在研究されているが、最近ではリーマンのゼロ点の並びが、原子核のエネルギー順位の並びと同じ式で表わされることなども分かってきて、ミクロな世界の時空構造を表わす「非可換幾何学」などとも関係することが分かってきて、究極の世界でも物理と数学が繋がろうとしているように見える。

 所で、実は今私が一番興味があるのは、「非線形科学」だ。今まで、科学は物質などの「命をもたないもの」を対象として成功してきたが、もっと身近な存在である、「生きているもの」を扱う科学はいまだ発展途上にあって、まだ科学の基礎足り得ていないのが現状である。今回のCERNの解析結果が「素粒子の標準理論」にどういった影響を及ぼすかはまだ分からないが、このまま、本当に「要素還元論的な枠組み」の中だけで完結してしまうのだろうか?(普通は、そう考えるだろうし、それはそれですばらしいことではあるのだが。)意外と、副産物として、非線形科学との繋がりや、接点のようなものが見つかってくればさらに面白い展開になっていくのではないかと秘かに期待している。私は、元々物理屋なのだが、現在では仕事の関係上、本来の物理的な内容よりも下記の副産物の方に興味を持っている。

 実は、CERNは本来の目的である、「新素粒子の発見」以外にも多くの副産物を生んでいる。CERNは情報技術の面でも、上に書いた「非線形科学」の最もホットな実験場でもあるのだ。皆さんもよく御存知なのが、「WebはCERNが発祥の地」であるという事実。Webはティム・バ―ナ―ズ=リーを中心としたCERNの物理ファミリーの中から生まれている。ティム・バーナーズ=リーは、「Webの父」とも言われていて、ハイパーテキストの発明者でもあり、最近のHTML5では彼の提唱する「セマンティック・ウェブ」の機能の強化が図られている。また、CERNでは粒子衝突で集積した膨大なデータ(約3200TB/年)を処理するために、世界中のコンピュータをネットで結んで分散処理を行う、コンピューティンググリッドの技術を全面的に採用した世界で最初のプロジェクトにもなっている。行っている実験そのものは、要素還元論的な科学の究極ではあるが、その周りの技術は、これらの最新のコンピュータ・サイエンスに支えられた、非線形科学の最もホットな実験場にもなっているわけだ。

 非線形科学で、最も重要な事は、簡単に言ってしまうと、「繋がって流れている」ことだ。アップルのヒット商品を見てみると、ipod->iphone->ipad->iTVとある意味をもった繋がり(まさにそれがセマンティックということだと思うが)で流れている。モノが中心だった時代は、ヒット商品は点だった。ちょっとしたアイデア、展示会や論文から目で盗み、各部署が勝手に面白い商品を作っていればそれでよかった。しかし、その手法は現在は陳腐化したものになってしまった。ヒット商品は点から線になったように思う。

by チイ


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

日本の家電大手の今後 [製品]

 リーマンショック後のここ数年で、日本の電機大手の中での明暗がはっきりしてきたように思える。総合電機といわれる産業系の重電部門を持つ、日立、東芝、三菱の業績が好調で、逆にそれ以外の短小薄型の民生系の家電商品を主力としてきた家電大手はどこも巨額の赤字へと落ち込んで収益の出せない体質になってきている。こうなった理由は簡単で、総合電機はもともと低い家電依存度であったため、それを切ることで業績回復することができたが、家電を主軸にするメーカーではそれができなかったため、現在に至るまでその悪い影響が尾を引いてしまっているためだ。

 2000年はじめのアップルの台頭以来、家電製品(特に短小薄型の家電製品)は従来の家電産業が提供するべきものではなくなってしまった。もっと具体的に言うと、現在の家電業界はネット分野での競争になっていて、そこでの主役はソフトウエアになってしまっているからだ。スマートフォンに続く家電最後のチャンスと言われているスマートテレビは、年内にアップルがiTVを出してくると言われていて、その内容はまだ定かではないが、いずれにしてもiCloud(サーバー)側とクライアント側の(iOS+Webkit+html5)のソフトウエアの設計がメインになるのは間違いない。(必要なら、パネルや受像機は今回、鴻海(ホンハイ)と提携したシャープのハードウエアを使ってくることになると思うが。)

 一方、日本の家電メーカーを見ていると、今年4月、経産省主導の中小型液晶パネル生産のジャパンディスプレイ(東芝、日立、ソニーの合弁)が発足し、ソニーとパナソニックがスマートTV用の有機ELのパネル生産で大連立を組むという話も出ているようだが、ハードウエアで韓国のサムスン電子を意識した後ろ向きの戦いになってしまっている。本来なら、前向きにアップルを意識して本命のソフトウエア路線で勝負を挑むくらいの覚悟をもってやらないといけないのだろうが、実情は後ろ向きに勝てそうなハードでサムスンに挑むしかないのが現実なのだろう。ただ、日本がこの先も家電産業で生きていきたいのなら、どこかの時点で会社の中身をハード→ソフトに完全に入れ替えなければいけない。目先の利益や今出来ることに手を煩わせていると、この時期がどんどん遅れて行って変わるチャンスを失ってしまう。

 アップルは自らがその流れを作った。しかし日本の家電メーカーはその流れを作り出すことが出来なかった。今、日本の家電メーカーにできることはアップルが作ったその流れにうまく乗っかることしかない。(もっとも、この流れとは別に新たな本流を自ら作りだすことや、ネットに全く繋がりそうにない製品を従来通りのハードの性能や品質を極めるだけの製品作りみたいなものもあるのかもしれない。)私は、個人的には、日本はもうDRAMなどのメモリや液晶や有機ELなどのパネル、撮像素子などの設計、生産からは早く手を引いた方がいいと思っている。日本はこれらの製品で今まで十分過ぎるくらい儲けてきた。細かい性能や品質の部分はまだ日本人にしかできないような所もあると思うが、もう十分に東南アジアやそれ以外の国でも開発可能な枯れた技術であることも間違いない。後追いで、どうしても変わらなければいけないような時、現在うまくいっているもの、儲かっているものの将来性を考えて、まだうまくいっている時にそれらを勇気を持って捨てる覚悟も必要だと思う。

 これからの21世紀の100年間くらいの間、とにかく日本人はコンピュータ・サイエンス関連のソフトウエアを死に物狂いでやった方がいいと思う。大学も東大が総合電機と同じで、どれもこれにも手をだして世界的にあまりぱっとするようなものがないのであれば、有名私大でコンピュータ・サイエンスに特化した学部を作り、世界的に通用するようなソフトエンジニアやハッカーを輩出するようなシステムを作っても面白いのではないだろうか?最初のうちは、世界的に著名なコンピュータ・サイエンスの教授陣やハッカーを高額で招集して、世界に通用する日本のコンピュータ・サイエンスのメッカを作ってしまうのだ。(この私大のこの学部は東大より世界的にもランクが上だみたいな学部がたくさんできてくると、日本国内のつまらない大学の序列みたいなものもだんだんとなくなっていく。)

by チイ


極みモノ文化 [製品]

 日本は、極みモノの文化だ。何か一つの道を極めた人は、その道の達人と呼ばれ尊敬もされるし、企業などの製品開発においても、他社と差別化するために、どんどん極み的なモノになっていく。実際、色々な分野を見渡してみても、日本人が創るモノの最高傑作は、ほとんどといっていいほど極みモノになってしまう。

 私は、昔から芸術や製品でも、極みモノと呼ばれるようなものはあまり好きではない。多くの場合、極みモノにはある暗黙の了解(前提)のようなものがある。その範囲があらかじめ決まっているということだ。その限られた範囲の中で最高のモノを創るべく競い合う。

 日本人が極みモノを作ってしまうのにはそれなりの理由がある。それは、欧米人と日本人の研究開発のやり方を見てみればよく分かる。欧米の優秀な人は、研究開発において必ず基礎をやる。基礎の部分で大きなブレークを起こそうとする。そしてそれが成功すれば、応用もやる。応用も6~7割程度やってしまえば、それ以上はやらないで、次の新しい分野の方にチャレンジしていく。一方、日本人は基礎はやらない。いつも欧米人が創った基礎の応用から研究開発が始まる。持ち前の学習能力の高さであっと言う間にそれを吸収して、その応用を100%極めようとする。かくして日本人の創るモノの最高傑作はいつも極みモノになってしまう。

 欧米人が基礎をやろうとするのは、その壁を乗り越えられれば、一番大きなブレークが得られるチャンスがあるからだ。適応範囲を広げられたり、新たな分野を生んだり、唯一範囲を自由に変えられるチャンスがある。実際、応用は、たとえば何かの製品を作ってしまえば、それで終わりだ。基礎でブレークがあると、そこから新しい産業が生まれ、それに伴って多くの応用も生まれる。そしてその基礎のブレークが科学の分野で行われれば、それは多くの工学のブレークに繋がり、多くの産業を生み、その下に多くの応用が生まれてくる。

 極みモノばかりやっていると、その範囲は変わらないので、その中で一部の人にしか分からないような、難解、複雑なものになっていく。しかし、そういったものはいずれまったく予期していなかったような新たな分野が生まれたり、従来ある分野が融合されて新たな分野が生まれてきたりして、万人でも理解可能なよりシンプルなものへと置きかえられていく。

 世の中が大きく変わろうとしている時、従来の枠組みの中で、その極みモノをひつこくやることほど愚かなことはない。実際、歴史的に見ても、欧米との競争で日本が極みモノに固執しはじめると大体が負けパターンになってしまっている。日本人は受験勉強で限られた範囲の中で競わされるので、範囲というものははじめから与えられるもので、それにうまく適合することばかり考えてしまう。社会人になったら、それが欧米の創った枠組みになるだけの話で、一生受験勉強をやっているようなものだ。

 今まで日本人は、あまりにも基礎や世界の枠組みを創るような仕事に無頓着すぎた。なので、時代の変革期にあっても、将来に向けた新しいビジョンを自分たちでなかなか創ることができない。ましてや時代はネットを介して有機的な情報が結びついて、新たな知見が生まれてくるチャンスがたくさん出て来ている。そんな中にあって、あらかじめ範囲を限定して極みモノをだけをやるのは明らかに賢い方法とは思えない。新しい日本人は、極みモノを越える必要があるように思う。

by チイ


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

単品モノの面白いハードウエアを短期間で作ってしまうような能力はもう不要になってしまったのかもしれない [製品]

 戦後の日本の復興を支えた得意な技術に、「単品モノの面白いハードウエアを短期間に作ってみせる能力」があった。当時の日本のインテリ達が欧米の文献などの中から技術的に応用できそうなものを見つけてきて、何か面白い役に立つ製品を短期間で作ってしまうような能力で、戦後まもない頃の貧しい社会情勢の中にあっては、会社に一番金のかかる基礎研究開発費を負担させないで済むので、この能力は特に重宝された。欧米からもまだ地球地下資源が無尽蔵にあるという前提のもとで、彼らの考え出した原理や技術を応用して世界経済を拡大発展させてくれる日本を好意的にも見てもらえた。

 しかし戦後から今日に至る、この手法で開発された製品の寿命期間を注意深く見ていると、最初はそれで何十年にも渡って優位性を保てていたものが、それが10年になり、最後の方にはたった数年で賞味期限切れというパターンが多くなってきている。日本の企業ではこの能力の高いエンジニアは天才エンジニアと称賛されてもてはやされた時期もあったが、よく考えてみるとこの手法は他人が考え出したものを目ざとく見つけてきて、それを拝借して応用して製品を作ってしまうといったあまり褒められたやり方ではないのも確かだ。

 今日、グーグルやアップルの成功を見て、日本の大手企業でクラウド・コンピューティングの戦略を考えてない企業はまずいないと思う。最近ではよくクラウド・コンピューティングが巨大な生態系(エコシステム)にたとえられたりもする。そのエコシステムの中で多種多様な製品群が出てきて多くのモノが売れると考えられているからだ。今日本の企業の本音は、本当はクラウドなんかやりたくないのだが、自分たちの作った単品モノの製品をネットに無理やり繋げて「クラウド」という言葉を冠さないと売れないからだ。要するに、クラウドを自分たちの作った単品モノのハードを売るための手段としてしてしか考えていないように私には思われる。なので、実際日本のクラウド・コンピューティングは、グーグルやアップルの後手に回って全然うまくいっていない。

 このブログにも書いた「インフォーグ革命」(2009-11-05)の中でルチアーノ・フロリディも言っているように、クラウドの本質は、世界がネットを介して有機的に繋がるようになれば、人がモノを所有する理由も必然性もだんだん小さくなっていくということだ。クラウド時代の新たなモノ(ハードウエア)の生態系は確かにこれから出来上がっていくことになると思うが、それは人のモノの所有を確実に減らす方向で、メインの有機的な情報を補佐(サポート)していくような形で出来上がっていくことになるはずだ。ハイパー消費の時代のように単品モノのハードウエアがクラウドの生態系の中で数多く出現して売れていくようなことにはならないと思うし、実際、もしそうなってしまうのであれば、クラウドをやる意味というのは全くなくなってしまう。

 現在、日本のクラウド・コンピューティングがうまくいっていないのは、クラウド、クラウドと連呼しながらも、実際には単品モノのハードウエアを短期間で作ってみせるような能力(仕事の仕方)から全然抜け出せてないためだと思う。そしてさらに言うと、G20でのモノの消費で地球地下資源の枯渇が叫ばれている中、この能力はこれからさらに貴重となる地球地下資源をただ浪費するだけの、人類にとってもう全く必要のない能力になってしまうかもしれない。

 最近、某メーカーで1億人近くの顧客の個人情報が漏洩する事件が起きたが、サーバーなどの管理は欧米の下請けの下請けに任せていたようだ。日本の主力のエンジニア達は、相変わらず単品モノのハードを作り続けて、自分たちが主力(メイン)で、サーバーセキュリティーの仕事など自分たちがやる仕事ではないと思っているのかもしれないが、実際グーグルなどは毎日のようにハッカーの攻撃にさらされていて、そのハッカーとの知恵比べでソフトウエアやネットワークの技術が進歩していっていることもまぎれもない事実だ。戦艦は空母の時代になって、主力から空母の護衛艦の地位になってしまった。時代とともに必要とされる能力や知識は変わっていく。自分たちが昔のまま主力であり続けられる理由はどこにもない。

by チイ


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

twitter使ってみたが・・・ [製品]

twitter使ってみました。

http://twitter.com/

のサイトで、「今すぐ登録」ボタンをクリックして登録を行うだけ。

私は、仲間内でささやくのではなく、不特定多数の人にある情報を発信したいのですが、

なかなか情報が伝わりません。企業などでも新製品を不特定多数の人に宣伝したい時って、

どのようにつぶやいているのでしょうかね?

結局、有名でない人が、twitterで、何かを知ってもらいたくて、不特定多数につぶやく場合、

どういった方法がベストなのでしょうか?

経験者がいられたら、是非、その方法を教えてください。

 

by チイ

 


ロハス&クラウド的「マイ~」の勧め [製品]

 この年末から来年はじめにかけて、やはり経済が2番底に入っていきそうな感じですね。民主党もそれに向けた90兆円を超える大型予算を組むようだし、実際に落ち込みがひどい場合、もうそれ以外の新しい政策なんかやってられなくなってしまうんじゃないでしょうか?

このブログにもこれまで度々少しずつ書いてきましたが、これからの21世紀の特に先進国での個人消費のあり方ですが、私はタイトルにも書いた、

    ロハス&クラウド的「マイ~」 : ~の部分に自分の消費したい製品を入れてください。

の消費スタイルになるのではないかと思っています。

ロハス的とは、地球環境にやさしい、循環的に長く使っていける製品のことです。(これの対極にあるものが所謂使い捨て製品です。)21世紀は先進国では、個人的な「モノ」を何でもたくさん所有しているような人は軽蔑される時代になると思います。たとえば、車が好きな人は車にはお金をかけて、年に数回おもいっきりドライブを楽しむが、電気製品はあまり持たない。オーディオの好きな人はオーディオにはお金を使うが、それ以外の電気製品や車にはお金を使わない。20世紀は「マイ」を全ての製品にあてはめていく時代だったのに対して、21世紀はそれを自分に本当に合った好きなものにしかあてはめない。

クラウド的とは、個人的なモノはなるべく個人で所有しないようにして、お金のある人はそれを必要な時にサービスの形態で受ける消費スタイルのことです。これから欧米でコンピュータが急速にクラウド化していく中で、それに合わせたクラウド的な応用商品もどんどん出てくると思われます。このあたりに今後の日本の活躍の場があるような気がします。いずれにしてもハードウエアを頻繁に買ったり、交換したりということは激減すると思います。

 多分多くの人が欧米の個人消費のスタイルがもう以前のようには戻らないということは何となく感じられていると思いますが、中にはそしたら中国やインドなどの発展途上国でたくさんモノを売ればいいと思っているかもしれません。しかし考えてもみてください。経済の規模がG7からG20に拡大されて個人消費を20世紀のスタイルでやっていたら、地球上の資源はあっという間に枯渇してしまいます。20世紀の限られた期間だけでもG7の国だけで地球上の資源を相当食い潰してしまっています。残りの資源は途上国の社会インフラや公共施設などに優先的に回していけば、もう個人で消費できる資源の量は限られてきます。はじめのうちはそれで回るかもしれませんが、すぐに資源の配分や枯渇の問題で頓挫してしまうと思います。地球環境の問題でも途上国に協力してもらえないし。

私は先進国の個人消費のスタイルが変われば、それはかなり早い時間で中国やインド、ブラジルなどの途上国の個人消費スタイルにも影響してくると思っています。確かに最初のうちはモノをたくさんほしがるとは思いますけど。すぐに現実問題としてそれができないことが分かってくると思います。

今の私にとってのロハス&クラウド的「マイ~」はインターネットに繋がるパソコンです。とりあえずこれがあれば、他の電気製品や車は必要ありません。PCでニュースも見れるし、音楽も聴けるし、ビデオも見れるし。(といってもやはり白物家電は生活のためにまだ必要か?)皆さんも是非自分に合った、ロハス&クラウド的「マイ~」を見つけてください。

by チイ


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

発展と成長 [製品]

 何か新しいことを始めようとする時、「発展」と「成長」の違いをきちんと理解して事を進めているだろうか?たとえば次のような質問。

「あなたは、企業を成長させたいのですか?それとも、発展させたいのですか?」

「日本の経済は成長すべきか?発展すべきか?」 ・・・ などなど。

最近読んでいた2冊の本がある。一冊が「技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか~画期的な新製品が惨敗する理由~」。もう一冊が「日本半導体敗戦~なぜ日本の基幹産業は壊滅したのか?~」。この2冊に共通した要点は、日本が過剰技術、過剰品質、過剰性能の製品を作ってしまい、結果事業で負けてしまうケースが非常に多いということだ。

  • 成長(growth)  ・・・ 既存モデルの量的拡大(既存モデルの洗練、磨き上げ。モデルをより                            効果的・効率的に運用し、生産性を向上すること。)

 

  • 発展(development) ・・・ 新規モデルへの不連続的移行(新規性・進歩性に富むモデルを                                     創出し、それを普及・定着させること。)

通常、この2つは車の両輪でどちらが欠けても駄目だが、日本では経済にしろ技術にしろ、圧倒的に「成長」だけのものがほとんどだ。「発展」は、ほとんど無いと言ってもいいし、別の言い方をすれば完全にそれは欧米任せになってしまっている。その結果、「成長」だけに磨きがかかって、その道の極みのような製品を作ってしまう。それも自らの力による「発展」の変化がないので、その洗練、磨き上げは同じ方向性で、その製品が売れなくなるまで永遠に続く。DRAMや撮像素子の容量拡大、半導体の微細化、ディスプレーの画質向上、携帯電話やAV家電製品のオーバースペック(私はこれを「てんこ盛り製品」と呼んでいます。)などなど、・・・ 挙げたらきりがない。

日本人の美意識からすると「成長」だけで十分なのかもしれない。ひょっとしたら、日本人の美意識の中には「発展」は無いのかもしれない。確かに日本人は、「連続」や「線形性」といったことが好きな民族である。だが、これは生命原理という観点からは相応しくない。堺屋太一の書籍にも日本人の陥りやすい陥穽として、この特徴が「ゼロ戦化現象」として語られている。特にこれからの先進国市場の成熟収縮と新興市場の拡大が予想される時代、この負けパターンのケースはどんどん拡大していくだろう。

 20世紀は資源、エネルギーがコモディティーだった時代だ。その時代、基礎や教科書作りは欧米人に任せておいて、日本は最後の応用で実を取ることで稼ぎまくった。ある意味、大量生産、大量消費の時代は「発展」よりも「成長」の方が有利に働いた時代だったとも言える。しかし、ここにきて潮目は大きく変わろうとしている。資源、エネルギーは希少化し、もはや今までの「成長」が続けられなくなってきている。21世紀は、「発展」の頻度が極端に増えて、それに伴って「成長」のスパンはどんどん短くなっていくように思われる。持続可能な社会に向けての「発展」が求められている。

昔から、音楽の事でよく考えていたことがある。もし、日本人が一番はじめに「平均律」を消化したとして、西洋のクラシック音楽の発展史のようなダイナミックな発展が出来ただろうか? と。多分そうはなっていなかっただろう。学校で習う、あのクラシック音楽の発展史、バロック->古典->ロマン派->印象派->現代 という流れは実にダイナミックな平均律の消化の過程なのだ。たとえば、ショパン芸術。ショパンの芸術はショパン一代だけで終わってしまっている。もしショパンが日本人だったら、そのお弟子さんでショパン芸術を継承して、ショパンよりもさらに洗練されたピアノ音楽を書く人が現れて、そのまたお弟子さんがそれ以上にその洗練度を高めて、・・・ という風に限りなく続いていたのではないか?しかし西洋ではそれは一代で終わっているし、だからこそそれに価値があるとも言える。

今は時代が大きく変わろうとしている真っただ中だ。経済にしろ技術にしろ、当然「成長」ではなく「発展」が求められている。そろそろ日本からも「発展型」の真のエリートが出てくる時代になってほしいものである。

book0910072.jpg湯之上 隆著 : 光文社

book0910071.jpg妹尾 堅一郎 : ダイヤモンド社

by チイ


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

マクロレンズを購入しました [製品]

先月に私の持っているニコンのデジタル1眼「D50」の交換レンズとして、「マクロレンズ」を購入しました。マクロレンズには、現在大きく2つの種類があります。

・本来の接写(クローズアップ)用のマクロレンズで、タムロンの90mm中望遠マクロ(SP AF90mm  F/2.8 Di)180mm望遠マクロ(SP AF180mm F/3.5 Di)などがあります。

・最近流行の「マクロ機能付きズームレンズ」で、今回私は、タムロンの13.9倍超高倍率ズーム(AF18-250mm F/3.5-6.3 Di Ⅱ)を購入しました。

本当は、タムロンの90mm中望遠マクロを購入する予定でいたのですが、直前にAF18-250mmを買うことにしました。花の写真を接写で撮るだけなら90mmマクロが最高なのですが、焦点距離が一定でズームできないことなど、どうしても使い方が限定されてしまうので、そのへんを考慮してAF18-250mmの方にしました。AF18-250mmは広角から望遠までカバーできて、かつ本格的なマクロ撮影も楽しめるということで、これ一本で何でもできてしまうというすぐれものです。

ただ、マクロレンズとして見た場合、

250mm(最大望遠)時、最短撮影距離45cmで最大撮影倍率1:3.5で、私の持っているニコンの望遠ズームレンズ(AF-S DX Zoom Nikkor ED 55~200mm F4~5.6G)でも最大ズーム時、最短撮影距離95cmで最大撮影倍率1:3.5なのでマクロ機能としてみた場合、そんなに大差があるとは思えません?(どなたか、この辺のマクロレンズとしての違いの分かる方は教えてください。)この点、90mmマクロは、焦点距離は90mm固定ですが、最短撮影距離30cm、最大撮影倍率1:1でマクロレンズの機能としては申し分ないものです。

 

 

タムロンAF18-250mmを使って早速、高山植物の「シシウド」を最大撮影倍率で接写撮影してみました。撮影時あいにく1m先くらいまでしか見えないすごい霧の中での撮影でした。

 

 箱根、「山のホテル」で撮影。台風のせいかどうか分かりませんが、滞在中あたり一面すごい霧で何も見えませんでした。晴れた日の富士山をバックの「芦ノ湖」が見たかった。

 

8月4日土曜日の夜は本厚木の「花火大会」がありました。自宅のマンションの屋上から撮影。

by チイ


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。