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茂木さんのtwitterで、今回の重力波発見に関連して、アインシュタインの思考と音楽の関係性について書かれた論文があったので頑張って訳してみました。内容はかなり難しいです。(英語の得意な方は、最後の「参照サイト」の中で原文で読めます。)本文中で「青」で記載されている部分については、最後に書いてある「参照サイト」の中で実際の音が聴けます。本文を読みながら、実際の映像音を聴いてもらえれば、著者の言っていることがよく分かると思います。
良い振動:アインシュタインの思考における音楽の役割
Liam Viney
Piano Performance Fellow, The University of Queensland
我々が科学の最新の並外れた大発見に驚嘆する時、それはアルバート・アインシュタインがどんな思想家であったのかを考える機会でもあるのです。20世紀の始まる20年も前に生まれて、それが正しいと証明されるのに21世紀の2番目の10年まで待たなければならなかったアイデアを考えつくことができた彼の心とはどんなものだったのでしょうか?重力波の存在を彼の一般相対性理論の最後の積み木として予言する責任を負っていた男は、しばしば舌を突き出して、電気毛シックの風刺画の人物にも帰せられます。それは、少し馬鹿げているが、他の人とはちょっと違った可愛い天才。本当の写真は多分そんなにカラフルではありません。アインシュタインは幅広い教育の産物であった。重要なことに、それはいたって多くの芸術や人間性を含んでいます。アインシュタインが熟達のヴァイオリニストだったことはあまり知られていませんし、彼が科学者になっていなかったら、自分は音楽家になっていたであろうと言っていたことはさらに知られていません。
私は音楽の空想の中に生きる。私は自分の人生を音楽の言葉によって見る。
アインシュタインの思考における音楽の役割を見ることは、彼がどのようにして最も深遠な科学的なアイデアを形作ったかに光を当てることでもあるのです。彼の例は、音楽の科学的な複雑さに親密に関わる中で、彼は自分の理論に他に類を見ないような審美的な質を運ぶことができたことを示唆しています。彼は自分の科学が統一されて調和のとれた、単純に表現され、そして様式美の感覚を伝えるものであることを望んでいました。彼はイメージや直感によって科学を考えることは、しばしばそれは直接彼の音楽家としての経験から引き出され、後はそれらを論理や言葉や数学に変換するだけであることを告白しています。
天球の音楽
重力波発見について考える多くのびっくりするような事の中で、それが特にアインシュタインの興味をそそったであろうものがあります。この信じられないような音。
LIGO 重力波の啼き声
重力波を音波に変換する中で、我々は不可解なほどに遠くの銀河からの10億年前の爆発の残響(echo)を聴くことができるという驚くべき特権を持っています。その時空の波紋(ripple)は我々に届くまでに10億年を要し、真空を通して毎秒29万9千キロの猛烈な速さで進んでいきます。孤独なぴしゃりと打つようなバスドラムは、畏敬の念を起こさせる宇宙の背景雑音(background noise)から出現する文字通りの転移(transposition)を示しています。人の耳のより良いスーツにあつらえて、それは不気味なほどに水を入れたバケツの中に落とされた小石のように聴こえます。水の中に小石を落とすことが、本質的に時空で10億光年離れた巨大ブラックホールの衝突と同じ波紋の音の効果を生むことを考えるのは奇妙ではあります。奇妙なだけでなく、しかし相応しい。つまり、それは部分的に音の基本的な力は、そのまま動き、生命の信号、活力や創造に繫れることを示唆しています。それは拍手をする、共鳴するヴァイオリンの弦か、または毎秒100回お互いの周りを回る我々の太陽より30倍も大きいブラックホールで、置き換えられるであろう何かです。最初の2つの作用においては、変位させられた空気分子が隣の空気分子に突き当たります。振動は鼓膜のように、波が吸収されるか止められるというよりは、何かを打つまで続きます。宇宙の例では、それは変位させられ、異なる種類の波を作ったりする時空で、それは永遠に真空中を旅することができます。アインシュタインは、彼の予言が確かめられたことを大喜びすることは別として、重力の波紋の音に魅了されたことでしょう。アインシュタイン自身によれば、音楽形式の音は彼に人生の他の何よりも喜びを与えました。気晴らしや趣味を越えて、音楽は彼の一部でもあったので、彼の科学的な仕事の過程で重要な役割を果たしたように思われます。アインシュタインの2番目の妻であるエルザは、彼の物語を語りました。 ー 1日は完全に物思いにふけって現れ、ピアノに放浪し、そして断続的にメモを書き留めながら半時間の間ピアノを弾きます。部屋の中に2週間消えたと思ったら(奇妙なピアノセッションが現れて)、それから彼は一般相対性理論の作業原案を草稿しました。もちろんピアノ演奏と一般相対性理論は、直接または具体的な意味では関係がありません。一つのレベルにおいて、この物語はアインシュタインに取っては、ピアノを弾くことは多くの人にとってのウォーキングと同じ効果を持っていることを示唆しています。歩行の思考プロセスは創造力を解放します。多くの世代の作家は言うまでもなく、明らかに古代ギリシャ人がそうしたようにベートーベンはそのことを知っていました。しかし、アインシュタインの心の中には、科学と音楽の深いレベルの関係性がありました。音楽がまさに彼の最も重要な科学的な発見の形で役割を果たした幾つかの証拠があるのです。どのようにを理解するためには、彼の二人のお好みの音楽の創作者、すなわち作曲家バッハとモーツァルトを知ることはもちろん、アインシュタインの音楽の背景についての何かを知ることは重要です。
ヴァイオリンのレッスン
我々は、ハツラツとしたアインシュタインが容姿だけではなく、ヴァイオリンの演奏がよく知られたほとんど自由奔放な人で、そして公的な人としての著名な側面を持っていたことを忘れがちです。アインシュタインはしばしばその時代の偉大な音楽家の何人かと一緒に弦楽四重奏の上演のステージに立つのが見られましたし、その中で見分けられないくらい冷静に振舞うことができました。アインシュタインが音楽の演奏から得られた知的な刺激の範囲やそれが科学に及ぼした創造的な取り組みのインパクトは、多分過小評価されるべきではありません。アインシュタインが最も愛した2人の作曲家が、ヨーロッパのクラシック音楽の中で特に好意を持たれた取り組みの最も著名な実践者を代表しているのは偶然ではありません。すなわちそれは、形式的な構造に仕える調性です。調性(tonality)は概念であり、ほぼすべての人が専門家としての訓練を受けていようがいまいが、ほとんど直感的に知っていて、それは重力によく似ています。調性の中心音(tonal centre)を持った音楽は約500年の間存在していて、イタリアのルネサンスからから始まって今日の世俗の映画やTV音楽に至る音楽の中で聴くことができます。実際に重力の類似性は、通常調性を説明する際に隠喩に拡張されます。すなわちそれは重力的な中心を持った音楽で、他のどのピッチよりも”ホームベース”のように最も安定して聴こえるピッチです。太陽系の惑星システムの中の太陽のようなものです。他は、調的な中心のピッチの周りの”軌道(orbit)”を ー 中心の方向に重力的に引っ張られる度合いを変えながら ー 調節します。幾つかはより弱く遠く離れて、他はより近くもっと強く引っ張られるのを感じながら。バッハの第3番のヴァイオリン・パルティータからのプレリュードを聴く多くの人は、この中央ピッチ(それは主音(tonic)と呼ばれる)を単に冒頭を聴いただけで識別することができるし、そして次に最も重要に聴こえる音なら何でもハミングすることができます。
Johann Sebastian Bach - Partita No. 3, BWV 1006 | Hilary Hahn.
もちろん物事は常にもっと複雑で、そして実際の物語は、バッハやモーツァルトが秩序とバランスの取れた力のシステムの中で構築できたものです。バッハの音楽は、音楽的な対位法(counterpoint)の芸術と同義です。すなわち別の旋律の層にする方法で、(それは通常2から5声の間で十分です。)それらは独立性を保ちながらも、しかし統一された方法で一緒に働きます。このバッハのハ短調BWV542のオルガンのためのフーガのクリップは、譜面が読めない人でも鑑賞できるような方法で対位法の複雑さを描いています。
Bach, “Great Fuga in G minor, BWV 542.
一つのメロディーまたは声部は2つになり、次に3つになり、そしてついには4つになります。その”構築的”な隠喩は容易に明らかです。 ー 音楽は美しく構築され、複雑で華麗だが均衡してそして均整の取れたように感じられます。まるで大聖堂や宮殿または実に科学の公式のように。しかし、おそらくアインシュタインの心により近かったのはモーツァルトであろう。彼の音楽的な形成期はヨーロッパの”モーツァルトに戻ろう”運動に最も近い。それは知覚の退廃とワーグナーの音楽的耽溺と彼の途方もなく長いオペラへの反動として起こりました。ワーグナーが調性システムをその極限まで引き伸ばして、20世紀のヨーロッパの芸術音楽の崩壊の前兆となった時に、モーツァルトのイメージは再び輝いて、様式的な完璧性と美の表現を両立して統合する取り組みを具現化するものとみなされました。モーツァルトの第41番交響曲、K551(然るべく”Jupiter”のニックネームがついている)の終楽章はアインシュタインがこの音楽の中で見たであろうものの手頃な例を提供しています。音楽の爽快な活気は別にして、第4楽章はモーツァルトの時代の最も洗練された様式デザイン(18世紀後半のソナタ形式)とバッハの時代の最も洗練された質感(18世紀前半のフーガ)を組み合わせた注目に値するものです。アインシュタインはおそらくはJupiterの最後の数分、その終結部でのモーツァルトが創作した並外れた音楽的な構造を特に楽しんだでしょう。サスペンスに満ちた休止の後で、そして彼の旋律の幾つかが、丁度楽しむために逆さまにされ、モーツァルトは最初の部分から5つの音楽的な主題を(旋律のようだが、しかし短く、断片的にされたもの)取ってきて、全てがお互いのトップになるようにそれらを層化しています。 ー 辛うじて音楽的な構築の複雑な科学を通して不協和音を避けながら 。相対論に含まれる数学と同様に、リアルタイムでここで起きていることに従うのは実際極めて難しい。終結部は、10:24の周りに始まるが、しかし全体の動きは本当に耳を傾ける必要があります。
Mozart Symphony 41 C Major - KV 551 - 4th Movement Molto Allegro
Jupiterのそれのように音楽に含まれる計算に反して、学ばれた複雑さは決してこれらの作曲家に取ってそれ自体が手段ではありませんでした。モーツァルトは一方で最も少ない数の音符しか使っていないが、ほとんどの作曲家以上の表現に対する名声を得ています。節約的に表現された趣の脆弱な美は、イ長調ピアノ協奏曲K488からの遅い楽章の中に聴くことができます。
Clara Haskel “Piano Concerto No. 23” Mozart(2. Mov.).
これはどちらかと言うと言い古された観念 ー モーツァルトは彼の音楽を創造(create)したのではなくて、既に出来上がっていたものを発見(discover)した ー と言うよりは今に繋がるような音楽です。アインシュタインは彼の理論の展望に、同様の純度、節約、調和を求めました。我々が丁度今、世紀の科学的大発見を祝っている時に、この音楽の脚注がどんな重要性を持っているのだろうか?私はそれは、我々の理解の方法 ー この中で、この特別に明らかな天才の心が働いているのだが ー を広げ、今日何の教訓を学ぶことができるかを熟考する機会であると信じます。アインシュタインの多次元の思考の取り組みの何が際立っているのだろうか?彼は学問分野の間に相補性を見て、決して科学のサイロ化や分断された瓶の中の人間性は夢見なかった。容赦のない環境の破局との戦いの中で、科学技術の重要性がさらに論争の余地が無くなる様に、(注1)STEMのような教育グループの取り組みの重要性は明らかのように見えます。しかしアインシュタインの例から、STEMにおける革新は芸術から来る所の思考のモードを必要とすることは明らかです。それは、彼が音楽の中に見出した構築的で様式的な美は、科学理論のひらめきとデザインを喚起することができるという考えです。音楽が彼を鼓舞し導いた。すなわちそれは、彼の机に座っている間はアクセスすることができない頭の部分を刺激しました。それは彼にパターンの感覚、情、勘、直観を与えました。 ー 言葉を含まない思考の方法としての記述することができる官能的な情報の全ての仕方です。ある者はグループに芸術を含めるように(注2)STEAMを示唆する。または読み書きを含めるように(注3)STREAMを示唆する。しかし、もし人間の知的努力が単に同等に扱われたら、それは偉大なのだろうか?アインシュタインは知識を創るために世界を経験しそして解釈できるように、心の多くの部分を使いました。そして再び、彼が従うべき悪い例ではないことが証明されています。
(注1)Science,Technology,Engineering,and Mathematics
(注2)Science,Technology,Engineering,Arts,and Mathematics
(注3)Science,Technology,Reading & Writing,Engineering,Arts,and Mathematics
(参照サイト)
http://theconversation.com/good-vibrations-the-role-of-music-in-einsteins-thinking-54725
by チイ
バーンスタインの思い出 [音楽]
YouTubeを見ていたら、色々なジャンルの人が「ビートルズ評」を書いているものがありました。その中でも作曲家を中心に、私が特に面白いなと思った論評を以下にまとめてみました。
- レナード・バーンスタイン ビートルズは20世紀最高の作曲家だ。いや、今世紀ならずとも、少なくともシューベルトやヘンデルより上等だろう。
- カラヤン ビートルズが音楽史においてもっとも革新的だった所は、アメリカンブルースのテイストに欧州古典のハーモニーを合体させたことだ。黒人伝統のものと白人のそれのミックスはポップミュージックにおいてこそ可能だった。ギター音は可能な限りフルボリュームに奏でられ、ユニークで複雑なコード使いが見られる。”3B”とは、”バッハ、ベートーベン、そしてビートルズ”のことだ。
- 武満徹 ビートルズの音楽は単純な和音でありながら聴くたびに新しい発見がある。私はポールマッカ―トニーやジョージガーシュインのような作曲家になりたかった。なぜなら彼らはメロディーメーカーとして天才だからだ。
- 坂本龍一 とにかくもの凄いショックで、ビートルズの音楽は感覚的にフィットしました。ビートルズは常にオールド・スタイルを持っているので、いつの時代にも訴えかける要素、ただのロックじゃなく色々な音楽の要素を抱えているんです。
- クインシー・ジョーンズ ポールマッカートニーはジャンルの垣根をなくした20世紀で一番優れた作曲家だ。私は彼の曲の優れた部分を一曲ごとに解説することが出来る。おそらくもう二度と彼のような作曲家は現れないだろう。彼はポピュラー音楽の中に自分用の音楽理論を確立させている。
- スティーブ・ライヒ 彼らの曲を聴いたとき、正確には「イエスタデイ」を初めて聴いたときに理解したよ。「イエスタデイ」は不滅の旋律だってね。あれこそクラシックな曲だった。僕は部屋の中でただじっと聞くしかなかった。僕にはそんな曲を書く才能は無いというのは明らかだったし、当時のクラシックの作曲家にも、バーンスタインでさえそんな才能など持っていなかったと思うよ。
- ジャクソン・ブラウン ただ聞いているだけだと誰でも作れそうな曲なんだ。作曲家になるつもりが無く本当にただ聞いているだけならね。作曲家になってしまうと僕らはポール・マッカートニーとの壁を感じなければならなくなる。
バーンスタインに関する私の思い出は、高校の時の英文和訳(長文読解)の授業にあります。私は英語は高校になってから全然量をこなせなくなってしまって、落ちこぼれてしまった。1年の時は運動部に所属していて毎日夜遅くまで練習があって、予習復習を怠ったために、中間/期末試験で初めて見る文章ばかりというような悲惨な状況だった。そんなわけで、高校3年間で習った英文和訳の内容はひとつも記憶に残っていないのだが、何故か高校1年の時の授業でバーンスタインが書いた記事の短い内容だけは今でも覚えている。
バーンスタインが書いていたのは、要約すると、「私は今クラシック音楽をやっているが、それよりも今アメリカでおこりつつあるJAZZなどの新しい音楽の方がもっと重要だ。」という趣旨のことを言っていて、英語の教諭がこの部分を力説してコメントしたのかもしれないし、その言い切る言葉の強さに私が反応したのかはよくわからないのだが、いまだにこの部分だけは鮮明に覚えている。
実際にバーンスタインのその頃の趣味は「黒のベートーベンを発掘する。」ことだったらしい。自分の練習が終わると、すぐにヴィレッジ・バンガードに出かけて行って、黒のベートーベンの卵を見つけては喜んでいたらしい。バーンスタインは日本の音楽大学で、「自分は高尚な音楽をやっているんだ!」とふんぞり返っているような大先生とは全然違うということだ。異文化コミュニケーション能力や、本物を見る目が凄いんだろうなと思う。
by チイ
ショパンの音楽 [音楽]
今年の第17回ショパンコンクールもまた新たな才能を発掘して閉幕したが、3週間にも渡る長丁場を乗り切って優勝するには、肉体的にも精神的にもタフでなければ務まらないわけで、ピアニストの登竜門としては本当に大変だと思う。コンクールは、どこか受験と似ているところがあって、細い綱渡りをさせられているようなところがあって、私自身あまり好きではないのだが、それでも5年に一度、また新たな才能に出会えるという意味での喜びも大きい。
今回、小林愛実さんがファイナルまで行ったが、一般に日本人女性は指が短い人が多いので、西洋人の成人男性と比べた場合、その肉体的なハンデというのはかなり大きいと思う。理想を言えばプロは10度は軽く届いた方がいいです。(私の場合、9度は届いて弾けますが、10度は無理をすれば届きますが実際に流れの中で弾くのは無理です。)肉体的な器からくる音の違いはもうどうしようもないものがあり、それも才能と言ってしまえばその通りなのだが。(知能のIQのようなものか?)
ところで、私はショパンの音楽からは、物質的なものはほとんど感じない。ショパンの音楽は波(波動)そのものだ。(それは精霊といってもいいのかもしれない。)ショパン以外の大作曲家の音楽からは、多少なりとも物質的なものをある程度は感じてしまうが、人間が肉体を持った物質的な存在であることを考えれば、それはある意味で当然のことではあるはずなのだが、ショパンが特殊なのだ。
ショパンの凄い所は、それを全ての楽器の中では一番物質的と思えるピアノで実現しているところだ。本来なら一番物質的なピアノという楽器を使って書いた曲は、一番物質的なものを感じさせる曲になるはずなのだが、ショパンの場合はそうはなっていない。これはもう完全にパラドックスの世界だ。
考えてみれば、ピアノはパラドックスに満ちた不思議な楽器だ。ピアノは平均律を一番代表する楽器でもある。ピアニストは調律師が調律した音だけしか出せない。弦のように自分で音程を調整できない。また、ピアノの音自体は弦楽器のようないわゆる「器量良し」の音ではない。ピアノの音は叩けばあとは減衰するだけで、単音でメロディーを弾いても音楽にはならない。でも和音で囲ったピアノの音はオーケストラにもなる。
最近のショパコンは、東洋人だらけになってきていると言われている。実際にアジアからも既に3人の優勝者を出している。ショパンの物質的な要素を感じさせない感性が、東洋人にもマッチしているのだろう。その一方で、私はショパンの音楽から「ロゴスの世界」も同時に感じてしまう。そういう意味ではショパンは紛れもない西洋人なのだ。多分ショパンの音楽で「ロゴスの世界」を表現するのは西洋人のピアニストの方が格段に上手だと思う。
ロゴスの世界が苦手で、東洋人の中では、一番物質的である日本人がショパコンでなかなか高成績を上げられないのは理屈に合っているのかもしれない。
by チイ
第17回ショパコン結果速報 [音楽]
近衛秀麿と亡命ドイツユダヤ人音楽家 [音楽]
戦後70年を記念した番組としてNHK-BS1で指揮者・近衛秀麿の特集番組をやっていた。「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~」近衛秀麿は近衛文麿の弟で、戦時下のドイツに終戦まで留まって指揮活動を行いながら、水面下で多くのドイツユダヤ人の命を救った。彼の紹介で本来ならアメリカに亡命していたはずのドイツの優秀なユダヤ人音楽家が日本へ亡命することになり、戦後の日本の音楽界の礎を築いた。
- レオニード・クロイツァ 1937年から亡くなるまで東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授を務めた(ピアニスト・指揮者)。指揮者の小澤征爾は、日比谷公会堂で、クロイツァーがピアノを弾きながら「皇帝」を指揮したのを見て、指揮者になる決心をした。
- ヨーゼフ・ローゼンシュトック 1936年に日本に来日以来、NHK交響楽団の基礎を創り上げた指揮者。戦後はアメリカに拠点を移したが、その後何回も来日している。
- マンフレート・グルリット 1939年に来日し、亡くなるまで日本で活躍した舞台音楽とオペラの作曲家・指揮者。戦後は、演奏活動のかたわら、英字紙に音楽評論の寄稿も行った。
こうして見てみると、戦後の日本のクラシック音楽界の躍進は彼らの指導の賜物でもあるわけですね。また自身の身の危険もかえりみずに彼らを救って、日本へと亡命させてくれた近衛秀麿にも感謝しなければいけませんね。
話は飛びますが、見直しになった新国立の3000億円の件ですが、私だったら、3000億円あったらAGIを開発できそうな研究者を1人10年で1000億円の契約で海外から優秀な人材を探して連れてきます。日本のコンピュータ・サイエンスの礎を築いてくれるような人です。3000億円なら3人も連れて来れる。
2020年のオリンピックのテーマを「AI時代の東京五輪」とでもして5年後の東京オリンピックにその中間段階での成果を発表してもらって、閉会後もオリンピック不況に陥らないように残り5年でAGIの実現に向けて産業界を牽引していってもらいますけどね。今の時代、近衛秀麿のような先見の明のある人はいないのでしょうか?
by チイ
文明としてのクラシック音楽 [音楽]
ソチ冬季五輪が終わってもうすぐ1ヶ月が経とうとしているが、ソチ五輪の開会式や閉会式のセレモニーを見ていてふと思ったことがあった。前回の夏のロンドン五輪もそうだったが、最近はセレモニーの中でその国の成り立ちから現在に至るまでのその国の歩んできた道のりを、歴史絵巻のようにしてプレゼンすることが多い。その中で、それに合わせてその国を代表するクラシック音楽の作曲家の曲が流されることが多い。今回ではチャイコフスキーやラフマニノフの音楽が流されていた。
ロシアと言えば、チャイコフスキーの3大バレー音楽やラフマニノフのピアノコンチェルトなどは世界中のだれもが知っている曲であって、それらの曲を聴くとすぐにロシアを思い出す。閉会式の最後の方では、次の冬季五輪の開催地である平昌(ピョンチャン)の韓国を代表する民謡のアリランが演奏されていた。
それで思ったのは、6年後の東京オリンピックで日本の歴史を紹介する際に、日本を代表するクラシックの曲で、世界中のだれもが知っている曲を選ぶとすると何の曲になるのかな?ということだ。日本を代表する作曲家といえば、多分一番有名なのは「武満徹」あたりになるのだろうが、私自身彼の曲についてほとんど知らない。多分流すとすると韓国と同様に日本の有名な民謡のいくつかを流すくらいしかないのかな?とも思ったリもした。
別に世界中の人がだれでも知っている日本の民謡でもかまわないのだが、何故か寂しい気持ちになってしまった。たとえば、西欧諸国の中では、ロシアはヨーロッパの周辺国(辺境の地)である。クラシック音楽も100年くらい遅れて伝わったが、チャイコフスキーやラフマニノフを生み、また他の周辺国でもポーランドはショパンを生み、ハンガリーはリストやバルトークを生んでいて、それらの曲は世界中の人が知っている。日本にもクラシック音楽が入って150年近くになるが、世界中のだれもが知っている日本を代表する作曲家の曲が無いのは悲しい気がする。
これは別の言葉で言えば、日本や韓国には「文化」としての音楽はあるが、本当の意味での「文明」としての音楽は無いということなのかもしれない。(茂木さんが昨日のツイートで文化と文明ということについて書いていたので、その言葉に当てはめてみました。)やはり、最も普遍的な音楽であるクラシック音楽で、しかもオーケストラ曲やオペラやピアノコンチェルトといった大作で、世界中のだれもが知っている日本を代表する作曲家の曲が無いのは寂しい。
最近、佐村河内氏のゴーストライターとして新垣氏が登場して来て注目を集めたが、芸大や桐朋を出た作曲家で、いい曲を書いている人はたくさんいるのだろう。また、中にはそれこそ20~30年に一人と言われるような逸材も何人かは出てきているはずだ。しかし、それでも世界中のだれもが知っているクラシックの大作曲家のクリエーターとしてのレベルにはまだ達していないということなのだろう。
糸川英夫が、日本は2次電流ばかり流れて、1次電流の流れない国だとよく言っていた。音楽もこの状況と全く同じで、「日本にはクラシック音楽が入って、150年が経とうとしているが、日本にはバッハやベートーベンを上手に演奏できる人はいても、バッハやベートーベンを超える音楽家(作曲家)は出てこない。」と言っていたことを思い出す。
by チイ