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バレエ音楽もあった~音楽における抽象性~ [音楽]

 連休初日の土曜日に、八島とも子さんのお姉さん御夫妻のバレエの合同発表会(第12回ヤシマ・バレエ教室/第6回盛川クラシックバレエ)にご招待いただいたので、鎌倉芸術館に見に行ってきた。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の全幕を見ることができた。私は、くるみ割り人形の「花のワルツ」は昔から大好きな曲の一つなので、それをバレエの踊りと一緒に見て聴くことができてとても幸せな気持ちになった。

 そこで、オーケストラを使った総合芸術には、「オペラ」だけではなく「バレエ音楽」もあったのだとハタときずいた。今年はワーグナーイヤ―なので、すっかりオペラに頭を取られていて、そのことを忘れてしまっていた。そして同時に、「音楽における抽象性」ということについてちょっと考えさせられてしまった。オペラでは、オーケストラに合わせてアクターが歌詞の付いた歌を歌って演じる。そのため音楽の表現がより具体的なものになる一方で、音楽としての抽象性、普遍性のようなものは失われる傾向にある。ワーグナーのオペラがヒトラー(ナチス)に悪用されたのは偶然ではない。そこには政治に利用できる具体性があったからだ。第2次世界大戦で、同じドイツの三大Bの音楽が嫌いになったとか、悪用されたような話はあまり聞かない。

 音楽には、「標題音楽」や「交響詩」といったようなものもあるが、音楽の理想はやはり抽象性や普遍性の中にあるように思う。その点、バレエ音楽は、アクトと音楽が完全に分離されているので、政治的に悪用されるような心配はまず無い。音楽としての抽象性も担保される傾向にある。オーケストラを使った総合芸術はこれからも色々な形態を持ったものが出てくると思われるが、その中で音楽としての抽象性や普遍性をどうやって担保していくかは大きな課題になっていくだろう。

 話は変わりますが、最近出版された、村上春樹の「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、リストの巡礼の年第1年スイスの第8番、Le mal du pays(郷愁)を題材にして書かれてあるそうです。私は基本的には小説は読まない人なのですが、今回は買って読んでみようかな~とも思っています。

 by チイ


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ワーグナー生誕200年~創造と破壊~ [音楽]

 この1月31日、東京文化会館で、作曲家、三枝成彰氏のオペラ「神風」のこけら落としがあった。この世界初演となるオペラを日本人の中で聴きに行った人ってどれくらいいるのだろうか?オペラは西洋芸術の最高峰と言われている。そのオペラをその国のどんな階層の人達が聴きに行っているかで、だいたいその国の知的レベルが分かると思う。恵まれた上流階級のお金持ちの人達だけではなく、貧しい労働階級や社会的地位の低い人達も聴きに行っているような国は総じてその国民の知的レベルが高いように思う。

 昨年春、銀座のヤマハのお店の地下の書籍コーナーで立ち読みをしている時、三枝さんの書かれているワーグナー評で、以下のような記述があった。

<だれもが脱帽する典型的な天才>

 (1)最も偉大な作曲家の名を挙げよ。
 (2)いちばん好きな作曲家の名を挙げよ。
 (3)とても自分には真似できそうにない作曲家の名を挙げよ。

(1)のおそらく偉大な作曲家として挙がるベストスリーは、バッハ、べ-トーヴェン、ワーグナー、
(2)の好きな作曲家といったときには、モーツァルトもしくはワーグナー、そして(3)のとても真似ができない作曲家といえば、まちがいなくワーグナーがナンバーワンになることと思う。

ワーグナーのすごさとは、このすべての答えに名前が挙がることであろう。
僕らに限らず作曲家ならだれでも、自分のことは棚に上げて、偉大な作曲家たちには少なからず手が届くと思っているものである。楽聖べートーヴェンにしろ、モーツァルト(音の微妙な変化を除けばだが)にしろ、バッハにしろ、彼らの音楽は決してはるか遠いところに存在しているものではない。

だがワーグナーは違う。どうあがいても手が届きそうもないのだ。あの電話帳のごとき分厚いスコア、そこに書き込まれた膨大な音符の数々-…・とても真似ができない。というよりも、彼のオペラとしては無謀ともいえる、分厚いオーケストレーションは、一体誰が歌えるのだろうか。こんな非常識さを持つたワーグナーの音楽の持っ腕力に圧倒され、ほとんど返す言葉もない作曲家たちは、みな苦笑いをしながら、ワーグナーにはかなわない、と認めざるを得ないのである。
                       「三枝成彰・大作曲家たちの履歴書」より

 クラシックの作曲家の人達にとっては、多分「オペラの作曲」という仕事は、交響曲を作曲する以上にやってみたい仕事なのだろうとは思う。しかし、ワーグナーは本当に凄いですね。多くの作曲家の人達にとって、ワーグナーは、バッハやベートーベンを超える存在なのですね。

 私はある時期までは、クラシックの声楽にはほとんど興味がなかった。クラシックの声楽が好きになったのは、ワーグナーを聴き始めてからだ。私は、ワーグナーの曲は一通りざっとは聴いているし、昔はDVDなども買って持っていたりもした。しかし、なるべく深入りしないように気をつけてはいる。ワーグナーの音楽は聴き始めると完全にその世界にはまってしまうのが自分でも分かるからだ。私は、ピアノという楽器が好きなのです。なので、音楽もジャンルに依らずに、ピアノ音楽を中心に聴いています。でもワーグナーを聴き始めるとその前提条件が全て壊れていってしまいそうで。それはそれで音楽のもっと広い世界を知るという意味では良いことなのかもしれませんが、音楽は趣味なのでピアノ音楽の中である程度閉じていたいという思いもあります。(もともとキャパシティー(容量)の少ない人間でもあるので。)

 「ワグネリアン」という言葉がある。日本でも、故ソニーの創業者の「盛田昭雄」氏や日本の大型計算機の父と言われた故富士通の「池田敏雄」氏などもワグネリアンである。最近でも脳科学者の茂木さんやそのご学友の和仁さんなども大のワーグナーファンのようだ。特に、戦前のドイツ文化の水準の高さを知っている人達の中にワグネリアンは多いように思われる。思うに、もしロマン派の時代にリストやワーグナーの新ドイツ派が出てこなかったら、ドイツ音楽がブラームスによって統一されて、その後暫くの間はクラシック音楽自体が長らく閉塞していたのではないかとも思う。面白いなと思うのは、リストもワーグナーも自分達の後を引き継いでくれるのは当然ドイツ人だと思っていたのだろうが、実際その後クラシック音楽の中心はドイツからフランスに移っていくことになる。これは全然悪いことではなくて、それまでドイツ中心だったクラシック音楽にフランス人の新たな感性が加わって、クラシック音楽自体がより実りの多い音楽になっていくきっかけにもなった。

 ワーグナーくらいの天才の芸術は、それが外に向いて開かれて行くときは、世界に創造の芽を与え、世界をより豊かにしていくが、それがひとたび内の世界に向かって進む時、世界に大きな破壊をもたらす。ワーグナーが望んだわけではないにしても、ヒトラーがワーグナーの音楽を純粋なゲルマン民族の象徴として利用したことで、世界中にワーグナー嫌いをつくってしまったことも事実だ。ワーグナーの音楽の本質は「魂の救済」にあると思う。それがドイツ人だけのものであるのはあまりにももったいない。本当に世界の全ての人々が聴くべき音楽なのだと思うし、そうあってほしいと思う。

 戦前、ドイツの芸術、学問は世界の最高峰にあった。そしてそれは、多くの部分をユダヤ人の才能によって支えられていた。ヒトラーが出てきてユダヤ人を殲滅したため、戦後ドイツの文化レベルは著しく低下してしまった。音楽の世界でもベルリンフィルの質は大きく低下した。才能のある演奏家のほとんどがユダヤ人であったからである。今では、世界の大学ランキングの上位にドイツの大学はほとんどないが、戦前のドイツの大学には、リーマンもいたしアインシュタインもいた。ゲルマンの最高の知性とユダヤの最高の知性が当時のドイツにはいたのである。一般相対性理論は、アインシュタインとリーマンの知のコラボレーションで生まれている。(アインシュタインは、一般相対性理論を記述する道具としてリーマン幾何を用いた。そのため友人の数学者グロスマンにテンソル解析を学んで、共著論文を提出後、当時のドイツの大数学者のヒルベルトとの間で、重力場の方程式の先取権論争が起こっている。(注))

 日本の音楽界から、ワーグナーに匹敵するあるいはそれを超えるようなオペラ作曲家が登場するのはいつの時代になるのだろうか?ワーグナークラスの新作のオペラのこけら落としは、世界的にも大事件であると思うし、その日は世界中の人々の心の中に刻まれる日になるべきだとも思う。

くだらない話ですが、...

ワーグナーの「おでこ」って異様に大きいですよね。前頭葉が相当に発達してそう。コンドリーザ・ライス前国務長官や将棋の渡辺明竜王の「おでこ」に似てますね。ワーグナーのIQって、200近くあったんじゃないんでしょうか?多分、膨大な数にのぼる音の組合せの中から、頭の中で瞬時に判断して最高の音の組み合わせを構築できたんでしょうね。

(注)内容に間違いがあったので、4/22(月)に訂正しました。アインシュタインはリーマンの没後(13年後)に生まれています。ヒルベルトはアインシュタインより5日はやく論文を提出しましたが、1997年の調査で、正しい方程式の先取権はアインシュタインにあるとの最終的な裁定が下された。

220px-Richard_and_Cosima_Wagner.jpg ワーグナーとコジマ

f0055956_7283859.jpg バイロイト祝祭歌劇場。今も、ワーグナーとリストの子孫が運営しています。


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ドビュッシー生誕150年~和音の革命家~ [音楽]

クラシック界も、一昨年のショパン・シューマン生誕200年、昨年のリスト生誕200年に続いて、今年はドビュッシー生誕150年の年なのだそうだ。まあ、生誕200年というのは区切りとしてはいいと思うが、150年はわざわざやる必要があるのだろうか?クラシック界もイベントとして何かないと集客の台所事情が大変なのかな?と思ったりもしていたが、ハタと気付いた。そうだ、私はドビュッシー生誕200年の年にはもう間違いなくこの世に存在していないのだ。そう分かった瞬間、この期にドビュッシーについて何か書いておこうという気になった。

 ドビュッシーは、数十年前くらいまでは、クラシック音楽の印象派を代表する一音楽家という位置付けでしかなかったが、ここ数年、ドビュッシーの評価はクラシック音楽というジャンルの壁を越えてうなぎ昇りに高くなっているらしい。ドビュッシーを語る時、忘れてならないのがアルモニシアン(和音家)としての顔だ。ドビュッシーは和音の革命家なのである。ドビュッシーをそこに導いたものには色々な要因があると思われるが、一番大きな存在は、やはりロマン派後期のリストやワーグナーなどの新ドイツ派の影響だろう。この時代、7thや9thの非和声音の和音は既に使われていたが(有名なものにワーグナーのトリスタン和音/減五短七の和音などがある。)、それはあくまで機能和声の和声法の中で使われていた。ドビュッシーはそれを拡張して、非機能和声という和声表現の中で行えるようにした。リストやワーグナーはドイツ人だったので、機能和声というきっかりとした構造の枠組みの中から抜け出すことは難しかったのだろう。

 今では、JAZZなどで当たり前のように使われている、高次の倍音である9thや11th、13thの非和声音(JAZZではこれらの音はテンション・ノートと呼ばれていて、裏のコードと呼ばれたりもする。実際使われる時は、♭9thや♯9th、♯11th、♭13thなどのオルタード・テンションとして使われる場合が多い。)を最初に使ったのはドビュッシーなのである。この辺の不協和音の和声革命はドビュッシーがやらなかったとしても、クラシック音楽が平均律を消化していく過程の中で、だれかがどこかの時点で必ずやっていただろう。それがたまたまクラシックでは印象派の時代にドビュッシーというフランス人がやったということなのだと思う。ドビュッシーは和音の拡張に合わせて、旋法(モード)でも色々新しいことをやっている。ドビュッシーが特に好んで用いた旋法にエオリア、ドリア、フリギアなどがある。(リディアとミクソリディアはあまり用いられなかったようだ。)五音音階(JAZZでいう5音ペンタ)や全音音階などもよく用いられている。この辺もJAZZで使われるモードやスケールを先取りしている。

 ドビュッシーの和声は、当時は醜聞を生み出したそうだ。その和声の豊かさと斬新さは、当初は理解されなかったようである。和声というものはたえず発展するものであり、このことは、人類が基音のもつすべての倍音を、ゆっくりとではあるが着実に知覚してきたことを具体的に示すものである。ある倍音が知覚され、使用されるようになると、それはやがて和声理論の中に組み入れられる。すると、それを受け入れたことが、それまで認められていたさまざまな和声の間の関係を相当に変えてしまうことがある。主に三和音でできているテクスチュアでは、七度は不協和音である。主に七や九の和音でできているテクスチュアでは、不協和音は十一度、十三度あるいは複調性の集まったものでなければならない。そして幅広く音を積み重ねた和音では、三和音が対照的に、不協和音、つまり融合しない要素のように響くということになる。最近のJAZZでは、まさに最後に書いたテクスチュアが主流になっていて、不協和音だらけの音の中に協和音が聞こえたりするとそれが逆に新鮮に聞こえたりするような状態になってしまっている。

 JAZZをやっている人がよく陥りやすい間違いとして、「難しい複雑なコードを使っている音楽」=「良い音楽」とはならないということだ。実際、協和音だけでも素晴らしい音楽はいくらでも書ける。私は、不協和音に関しては、基本は協和音で不協和音は決めるべき所で節度を持って使うというスタンスが一番好きだ。とはいっても、知ってしまった以上はそれを使わない手はない。今ドビュッシーが開いてくれた不協和音の和声の恩恵を一番受けているのはクラシックというよりはむしろJAZZだろう。私自身も、和音の持つ複雑な響きの美しさに一番始めに触れるきっかけになったのはJAZZを聴き始めてからだ。ドビュッシーは天才だったので、それを彼の耳だけに頼って、直感的にやったが、その後、それを体系的にシステマティックにまとめあげて一番使っているのはおそらくJAZZだろう。JAZZの人はドビュッシーにお礼を言わなければいけないのかもしれない。

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Claude Achille Debussy  1862-1918

by チイ


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リストという生き方~点と点を結ぶ人~ [音楽]

 今年は、リストイヤーの年だ。そして10月はリストの誕生月(10月22日生まれ)でもあるらしいので、何かリストのことについて書いてみようと思う。

 フランツ・リストは不思議な作曲家だ。リストは所謂クラシックの「楽聖」と称される人の一人として音楽史にその名を刻んでいる。クラシックの楽聖とはどういう人のことを言うのだろうか?私が想像するに、

  1. 大作曲家であること。
  2. 当時の超一流の演奏家(ピアノ)であったこと。
  3. 即興演奏の名手であったこと。

 の3つの条件を全て満たしている音楽家ということになると思う。中には3つ全部は満たしていない人も含まれたりはしているが、基本的には、ドイツの3大B(バッハ、ベートーベン、ブラームス)に代表されるように、多くの楽聖が必ずといっていいほど備えている能力である。現代の音楽家では、この3つの中のどれか一つで世界一流になるだけでも大変なことなわけだから、まさに音楽の世界のスーパーマンみたいな人達であるのは間違いない。

 で、リストであるが、2と3は確実にクリアしていると思うのだが、1についてはどうなのだろうか?人によって意見の分かれるところだと思う。リストがドイツの3大Bや同時代を生きたショパンなどと大きく違うところは、残した作品の「質」に関する部分である。リストの書いた曲にはもちろん傑作もあるが、駄作と言われるような作品も多いのは確かである。たとえば、ピアノ曲で比べてみても、ショパンの書いた曲には駄作はほとんど見当たらない。もちろん傑作と言われるような曲は全体の一割にも満たないくらいしかないわけだが、それでも残りの大部分の曲でも質的には「中の上」くらいのレベルは確実に満たしている。もし、クラシックの作曲家の評価を、その人が残した作品のみで純粋に判断するなら(普通は、まじめなクラシック評論家や愛好家はそうしているように思うが)、リストは残念ながら大作曲家とは言えないのかもしれない。

 ただ、リストの擁護をするわけではないが、リストがそう思われる(駄作が多い)理由のひとつに、編曲モノ(トランスクリプション、パラフレーズなど)の数がやたらめったら多いことがある。クラシックは元々、原曲中心主義で、編曲第2芸術主義(アレンジは、2流の作曲家のやる仕事という意味)というのがあって、その考えにそえば、リストの編曲美学は受け容れられないことになる。もっとも、クラシックの名曲の中には、ベートーベンの「ティアべりのワルツによる33の変奏曲」やブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」などまじめな変奏曲での名曲もたくさんある。リストの場合は、それが曲弾き(当時のオペラや交響曲のパラフレーズものなど)に近いものだったのだろう。

 リストは、当時の音楽家としては長生きして75歳まで生きた。(1歳年上で39歳でなくなったショパンの約2倍生きたことになる。)その間、音楽家も含め色々な人達と交流を持ち、多くの人から影響を受け、そして多くの人に影響を与える存在になった。今の言葉で言えば、丁度、点と点を結ぶ人、繋がりの人ということになる。そしてリスト自身は、その繋がりの中の巨大なハブ(集線点)になった。パガニーニの弾くヴァイオリンの超絶技巧をピアノに取り入れ、ピアノの表現技法を格段に飛躍させ、現代ピアノリサイタルの様式を確立させた。そして、現代のクラシックのピアニストのルーツは、全てリストから始まっている。ベルリオーズの「標題音楽」を発展させて「交響詩」を創設した。ワイマール時代には、ワグナーなどとともに、新ドイツ派の中心にいて、ロマン派の管弦楽法の基礎も作った。晩年は無調の音楽にたどり着き、後のフランス印象派のドビュッシーやラベルにも大きな影響を与えた。カトリックの聖職者にもなり、教会音楽にも多大の貢献をした。そして、リストの編曲美学は、現代ではポピュラー音楽の中ではアレンジの技術として当たり前のように使われている。

 だれかがリストのことを「預言者」と言ったらしいが、リストの音楽は本当に未来を予言していた。リスト自身がその予言したものの多くを、作曲家としては「最高の形」としてスコアに残せなかったのかもしれない。しかし、リストは多くの人と繋がることで、その「芸術の芽」を周りの人や後の世代に引き継いでいった。実際、クラシックの音楽家の中で、リストくらい色々な人と繋がって、音楽に多大な影響を与えた人物は他にはいないだろう。そういう意味でも彼はクラシック音楽の中のまぎれもない「楽聖」なのだ。リストは19世紀のヨーロッパにあって、21世紀のインターネットのグローバル社会をも予言していたのかもしれない。

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Franz Liszt 1811-1886

by チイ


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良いこと探し [音楽]

 東日本大震災からちょうど1か月が過ぎたが、東日本ではこの1ヶ月間くらいの間、毎日のように余震が続いている。この地震収束までには半年から1年くらいはかかってしまうのだろう。今年は地震に始まって地震に終わる1年になってしまいそうだ。福島原発の放射能漏れの事故も長期化は避けられない様相を呈して来ている。

 これから日本は、どのようにして復興していくことになるのだろうか?私には日本のこれからの未来に向けてのビジョンがよく見えない。リーマンショック前の「ハイパー消費」の社会に日本が再び戻る事を期待している産業界の人達は多いようだ。この震災を境に、日本が今まで以上にお金やモノや資源に執着して、昔の古い世界に逆戻りしてしまうことを私は一番恐れる。現状、すぐにやれるこ事を優先して行った場合、今までのハイパー消費の枠組みの中で、それを発展させていく方向に向かっていってしまいそうな気もする。

 考えていると、暗い気持ちになってしまうので、最近自分の周りでの良かったこと探しをしてみたのだが、ひとつだけ良いことがあった。それは音楽に関することで、ビル・エバンスのヴィレッジ・ヴァンガードでの「ワルツ・フォー・デビー」の完全コピー譜がピアノでどうにかこうにか弾けるようになったことだ。この曲は私がJAZZを聴き始めるきっかけになった曲で、今でも大好きな曲のひとつだが、今まで何回となくトライしたが結局は挫折して弾きこなせないでいた。もともと、ビル・エバンスやキース・ジャレットの完全コピー譜はクラシックでいえば、中級程度以上の技術がないと弾けないのは確かである。なので、挫折して当たり前ではあるのだが、今回は特に猛練習をしたというわけでもないのだが、何故か弾きこなせるようになった。

 JAZZの演奏の中でも、アドリブを含めて、クラシックのように一音たりともその通りに弾きたいと思わせるような曲がある。私にとっては、それは、このビル・エバンスのヴィレッジ・ヴァンガードでの「ワルツ・フォー・デビー」であったり、キース・ジャレットがミラノのスカラ座のソロ・コンサートのアンコールで弾いた「オーバーザ・レインボー」であったりするわけだが、これは本当にアドリブなのか?と思わせるくらいよく書かれてあるのだ。

 「Waltz for Debby」 はエヴァンスの兄娘デビイのために書かれたワルツだが、原曲の素晴らしさはもちろんだが、アドリブもこのヴィレッジ・ヴァンガードでのものが最高だ。エヴァンスは白人なので、JAZZの場合、どうしてもリズムという点に関しては難があるのだが、このワルツのアドリブは文句なしに最高にすばらしい。これを聴いているとワルツとは本当に白人の音楽なのだなと納得させられてしまう。(もっとも最近知ったのだが、ビル・エバンスはユダヤ人であるらしい。白人の中で血が混じって、私達には白人にしか見えないが。)

 私は「和音の耳コピ」はできない人なので、上記のジャレットの「オーバーザ・レインボー」は知り合いに数万円払ってコピーしてもらった。このコピー譜はまだ販売されていないようで、相聞花伝の譜面集に載せようと思っているが、まだ実現していない。こちらの方も曲としてはほとんどアドリブと呼べるような部分は少ないのだが、その和声の音使いは信じられないほどにすばらしい。クラシックのピアニストも是非アンコールなどで弾いてみては?とのお奨めの曲でもある。「ワルツ・フォー・デビー」や「オーバーザ・レインボー」はクラシックのピアニストにとっても、比較的すんなりとJAZZに入りやすい特徴を持っているのではないかと思う。音楽は最終的には情念の世界になってしまうので、今回、弾きたいと思う気持ちが技術の壁を越えさせてくれたのかもしれない。

by チイ


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ユリアンナ・アヴデーエワはすごい [音楽]

(公開をためらっていたので、時機を逸してしまいました。すみません。)

 相聞花伝に久しぶりにきたら、2010年のショパンコンクール覇者を知り、興味を持ちました。とはいえネットの動画で聞きかじった程度で、どの程度すごくてどういう特徴を持つ人なのか判断できずにいたのですが、先日(2010.12/26)N響アワーで、彼女が弾くショパンのピアノ協奏曲第1番を聴くことができたので、感想を述べたい。

 まあ、時の人をN響が取り上げることは不思議ではないにしても、「たかが」ショパンのピアコンの指揮にシャルル・デュトワが当たるか?というのが、曲が始まる直前までの感想。ふーん、さすがショパンコンクールともなると、そこまで格上の指揮者に恭しくお願いするものなのか、すごいステータスだ、というのが、曲が始まってから長いオケの提示部を聴かされていた時の感想。そしてピアノが入った瞬間、あ、これは並の指揮者では合わせられない、と合点した。

 アヴデーエワの演奏を一言で評するなら、自由奔放ということになるだろう。自身の内面から出てくる音楽に、1音たりとも背くこと無く、忠実に音にする。それが可能な強靭なテクニックがあるからこそ、やりたいことの全てを思いのままに実現できる。とりわけすごいのは、ルバートだ。ショパンはルバートがあって当たり前と思われるが、基準となる拍が無闇に延ばされれば、テンポも異常に揺れを感じる(そこに面白さがあった)。それを、オーケストラに対して、1ピアニストが多分「即興的に」(打ち合わせなしに)行うのだからスリリング、どう見ても、オケマンたちは皆、必死の形相だった。(その顔は見物だった(笑))

 思うに、一流のピアニストは何が違うかといえば、体の中に、弾こうとする音楽が場合によっては言語以上に完全に染み渡っていて、いつも弾きこんでいる曲をその場で自在に「今日しか弾けない音楽として」聴衆に提供できること、なのではないか。クラシックなので譜面はあるが、解釈は即興的に決められる、とするなら、譜面の中から何を読み取るべきか、というラインをぎりぎりクリアしている程度では、不可能だろう。音楽が、血となり肉となっている人にのみ許された特権だと思う。

 

 その意味で、アヴデーエワは音楽の化身のように見えてしまった。これからの活躍を祈るばかりだ。

竹内淳


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音楽会への歩み [音楽]

 毎日、念のいった暑さが続いておりますが、皆様、如何お過ごしですか?

 その昔、白居易が謳った「人人避暑走如狂 獨有禪師不出房」の気分がとても身近に感じられます。違うのは、クーラーの効いた部屋から出てこられないのは禅師にあらず、という位で。

 この暑さの中で第3回目の楽遊会を行いましたが、その内の2人の演奏を”歳時記”と”コンサートレビュー”に掲載しましたので、是非ご視聴下さい。

 そもそも音楽会を行う、とはどういう行為なのでしょうか?

 曲を選び、練習する日々において、心象風景は様々に変化していきます。例えば、メロディーと伴奏形を覚えた上で、互いの作用の仕方を見つめると、また違った色合いや情景が聞こえてくる。自分が想うこと(恋ってやつかな・・・)が見えるようになると、相手の考え方も見えるようになり、両立するための対話を試み始める(愛に近づけ~!)。そうこうするうちに、本番まで”あと何日!”と気付くと途端に気分が現実的になり、本番のピアノの状態やら身に付ける物といった物質的な事への関心も目覚める。最も、衣装などへのおしゃれ心は、曲の色合いや雰囲気を再考するきっかけにもなりますが。

 さて、音楽会という場に臨むと、改めて多くの人の協力があって成り立つものだ、ということがよく分かります。

 椅子を運んだり、照明セッティングをしたり、お客様の案内だって、ロボットじゃねぇ(その内、自動改札機付きのホールになるかもしれないでしょ!?)・・・と、頭の中は人、人、人。あそこから話しかけられたら、こう、そっちの話しには、どう、と言葉のサーフィンをしていくと・・・おぉ、これはまるでフーガではないの! 額面的テーマ=今日の音楽会、真因性テーマ=社会的個性の交わり ・・・なんちゃって!?

 斯くして、音楽会に臨むこと事体が、内からも外からも音楽的に過ごす日々となること(万歳[手(グー)])、ご理解頂けたでしょうか?

 クラシック音楽を予定的調和と批判する人達もいるけれど、戦争より平和を望むならば、それはやはり調和に向かおうと努力するしかないんですよね。人知には、衝突しか考えられないような超異質な物どうしでも、宇宙を型取る力からすれば、はめ込み方など幾らでも見つかるに違いない、のでは? 無限の良き可能性の存在を信じる・・・というのも音楽的行為の初期設定に欠かせない心映え、ということは・・・色々な方面で先行き不安ばかりが強調される昨今に、まだ知れぬ様々な調和の姿を古今の音楽から聞いて、多くの人を勇気づけられるといいな、と楽屋裏から秘かに願うのでした。

by パハリートのつぶやき


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リーマン予想とJAZZピアノの関係 [音楽]

 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

ということで、2010年は年明け早々に、横浜のライブハウスKAMOMEにJAZZのピアノトリオを聴きに行って来ました。

   中島さち子TRIO「Rejoice」  中島さち子(P)、生沼 邦夫(B)、つのだ健(Ds)

 ところで、皆さん、中島さち子さんって、御存知ですか?この人、異色のJAZZピアニストなのです。最終学歴は東大の数学科卒。それもただの受験エリートではありません。フェリス女学院高等科在籍中に、国際数学オリンピックで日本人女性初の金メダルを受賞されている本物の数学の天才少女だった人なのです。私がたまたま10年前くらいに買った、数学書「ゼータの世界」を日本のリーマン予想の第一人者の黒川信重氏らと学部生の時に書かれたりもしています。昨年はリーマン予想が出されてからちょうど150年目ということもあって、数学の世界から離れられてからも雑誌などに音楽家として立場からエッセイを寄せられたりしています。

 私は彼女が将来を約束された数学の世界から身をひいた本当の理由は知りません。(一部報道によると孤独だったのでは?というような噂もあるようです。)人間味のある音楽の世界に徐々に惹かれていったということなのでしょうか?それはともかく、今は現役のバリバリのJAZZピニストです。もともと4歳の頃から、ピアノと作曲をやってられたそうで、14歳で数学に出会わなければ、そのまま作曲家かピアニストになってられたのでしょう。(さすがに14歳から二十歳くらいまでの間ブランクが空いてしまうと、クラシックのピアニストはもう無理だと思います。)本人は自由な音楽が好きでJAZZを選んだと言っています。

 JAZZピアノは大学卒業後に本格的に本田竹広氏に師事したようです。才能のある人って、何をやってもうまくできてしまうんですね。うらやましい限りです。本当は前に書いたような肩書というか、先入観を持ってその人の音楽を聴いてしまうのは絶対よくないことなのですが、私の場合、どうしても数学との関係で聴いてしまいます。数学の天才少女がどんなJAZZピアノを弾くのだろうかと?

 ひさびさのライブハウスだったので、その音量には圧倒されてしまいました。特にドラムの音が大音量なので、それにピアノの音が負けないように和音は飛び上がりながらたたきつけるように弾いていました。(細身の体なんですけどね~、あのバイタリティーはどこから来るのでしょうか?実際グランドピアノが打鍵で振動しているのが分かりました。)私としては大音量のものもライブらしいエネルギーの爆発を感じてよかったのですが、普通に弾いている中音のリリカルな演奏やバラードの演奏もすばらしかったので、もっとそちらも聴いてみたかったです。

 今年は、年明け早々に天才に触れることで、そのエネルギーをいただいたような気がします。今後数学の天才少女がどんな新しい音楽を創っていくのか楽しみです。こんな人がいてくれて、日本のJAZZや民族音楽の裾野も広いな、捨てたもんじゃないなという印象を持ちました。今年は勉強して、もっとリーマン予想の意味を深く理解できるようになりたい。

by チイ


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グルーヴァー&マクラー(Gruber & Maklar) [音楽]

 今季の相聞花伝HPの<歳時記>に登場したギターデュオ・グルーヴァー&マクラーを御紹介します。先月初めて日本にやって来た彼ら、本名をクリスチャン・グルーヴァーとペーター・マクラーといいます。ミュンヘン近郊の育ちで、共に兵役を拒否して奉仕活動をしていた頃に出会い、今ではバヴァリア地方を代表するギターデュオに成長しました。

 清潔でナイス!な音作りをする彼らですが、11月のコンサートではミュンヘン在住の日本人オペラ歌手(トモコさん)とトリオを組んで、日本歌曲も演奏しましたところ、これがもう、目を閉じると「日本人が3人」というくらい、ハートフルな音を出してました[黒ハート]

 CDにもなっておりまして、彼らのHP(http://www.gruber-maklar.de)で注文できます。(英語可)

 チャーミングな大人でナイスガイの二人、是非再来日して欲しいものです。

by 中里真由美


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Can't buy me love [音楽]

今の世界同時不況を「人類の折り返し点」だと認識している人がどれくらいいるだろうか? 

「大量生産・大量消費」という20世紀型成長モデルが崩壊し、”モノ”に代わって、環境・自然・健康・安全・文化が21世紀のキーコンセプトになりつつある今、金融危機の反省も兼ねて、お金で買えない物の価値を歌った初期のビートルズのナンバーから、私の最も好きな曲を載せてみました。

英語のヒアリングに役立ててください。

(歌詞和訳)

Can't buy me love, love

Can't buy me love

愛は買えないんだ、愛は、

愛は買えないんだ

I'll buy you a diamond ring my friend if it makes you feel alright

I'll get you anything my friend if it makes you feel alright

('Cause) I don't care too much for money

money can't buy me love

ダイヤのリングを買ってあげるよ、わが友よ、もしそれでいい気持になれるなら

君に何でもあげるよ、わが友よ、もしそれでいい気持になれるなら

僕は重要視してないよ、お金なんか

金で愛は買えないんだ

I'll give you all I got to give if you say you love me too

I may not have a lot to give but what I got I'll give to you

I don't care too much for money

money can't buy me love

あげられる物は全部あげるよ、もし君も僕を愛していると言ってくれるなら

たくさんはあげられないかも知れないけど、持っている物は君にあげる

僕は重要視してないよ、お金なんか

金で愛は買えないんだ

Can't buy me love, everybody tells me so

Can't buy me love, no no no, no

愛は買えないんだ、誰もがそう言うよ

愛は買えないんだ

Say you don't need no diamond ring and I'll be satisfied

Tell me that you want the kind of thing that money just can't buy

I don't care too much for money

money can't buy me love

ダイヤのリングなんか必要ないって言って、そしたら僕は満足さ

言ってくれ、君がほしいのはお金じゃ決して買えない物だと

僕は重要視してないよ、お金なんか

金で愛は買えないんだ

[Instrumental]

Can't buy me love, everybody tells me so

Can't buy me love, no no no, no

愛は買えないんだ、誰もがそう言うよ

愛は買えないんだ

Say you don't need no diamond ring and I'll be satisfied

Tell me that you want the kind of thing that money just can't buy

I don't care too much for money

money can't buy me love

ダイヤのリングなんか必要ないって言って、そしたら僕は満足さ

言ってくれ、君がほしいのは金じゃ決して買えない物だと

僕は重要視してないよ、お金なんか

金で愛は買えないんだ

Can't buy me love, love

Can't buy me love, Ah

愛は買えないんだ、愛は

愛は買えないんだ、Ah

 

by チイ


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