SSブログ

日本は成熟国家だというが「知」だけが唯一成熟していない [学問]

 最近、今の日本の閉塞感を打開しようと、明治維新に習って、「私塾」や「日本八策」といったようなものが多くの識者から発表されたりしている。また、東大が5年後をめどに秋入学にするとか、それに対して京大の学長が朝日新聞で論説を述べるなど、大学も少しずつではあるが変わろうとしている。産業界でも、日本の就活のシステムを見直したり、日本の成熟国家としてのメリットを生かした戦略を唱える人も多い。しかし私には、日本は成熟国家だと言われるが、その中で唯一日本の「知」はまだ成熟国家とは言えない、ある大きな壁があるように感じる。

 その「壁」とは何なのだろうか?それは多分、日本が明治の開国以来、自らが進んで「知の体系」を作って来なかった、あるいは意識的にそれを作らなかったことに関係しているように思える。日本は「知」に関しては、「つまみ食い」=「いいところ取り」なのである。それができるということは、日本人が世界一の学習習得能力があるという良い面でもあるのだが、その裏返しとしてこれを成熟国家になってもずっとやっているので、いまだ日本人は自らの力で汎世界的に通用する分野で「知の体系」が何一つ作り出せていない。「いいところ取り」なので、いつも単発に終わってしまって、全体の大きな「流れ」が作り出せていないのだ。学問にしても技術にしても「体系を作る」とは、これまでになかった新たな領域の基礎を作るということだ。そして、そういった領域が次々に生まれてきて、ある時それらの領域がさらに繋がって、従来の分野も含めてさらに大きな体系となるべく流れていく。そういったダイナミックな体系の流れを日本人はいまだ作れていないのだ。

 多くの人も気付いていると思うが、インターネットの時代になって、単品モノのハードウエアだけ作っていればよい時代は終わった。モノが中心だった時代は、「いいところ取り」で、短期間に最後の応用の所だけを上手にやっていればうまくいった時代は終わって、ソフトウエアやシステムが中心の時代が到来した。昔から、日本人はよく目から盗むと言われる。ソフトウエアも、数十年くらい前であれば、数千から数万ステップくらいのボリュームであれば、ちょっと気のきいた人で根性があれば半年~1年間くらいかけてソースコードを解読すれば、そのエッセンスを習得することは可能だったが、今ではOSなどのソフトウエアは、最低でも数百万~1千万行くらいのボリュームになっていて、一人の人間が一生かかっても解読できる量ではなくなっている。現状のソフトウエアやシステムなどは、もう「いいところ取り」ができない状態になってしまっているのだ。自らが主体的に、創造的にその体系を作っていくしかなくなってきている。

 大学にしても同じことが言えると思う。大学の一番の存在理由は、「知の体系」を作ることだと思う。しかし、日本の大学はそれができていないので、欧米の優秀な学生で東大や京大に入学したいという人はほとんどいない。当の日本人はといえば、欧米が数百年以上も前に作った学問を、人工的に難しくして競い合わせるようなことをいまだにやっている。要は、もうすでに終わってしまった学問の超ウルトラクイズである応用問題のできる人材をいまだに作っているわけで、新しい学問の体系を作れるような人材を輩出する教育システムになっていないのだ。「坂の上の雲」のたとえで言えば、秋山真之が日本海海戦でT字戦法を編み出して成功したものだから、その後艦隊決戦のありもしないような人工的に難しく作った応用問題で人選した士官が、第2次世界大戦では、既に空母の時代に入っていて、全くそれに適応できなかった、という現実と同じような状況に陥っているのだと思う。

 これはあまり大きな声で語られることは少ないが、西洋でルネサンスが始まった時、イスラムは数学、天文学、物理、音楽など全ての分野で西洋を凌駕していた。丁度日本人が明治維新に西洋の学問を必死になって勉強したように、ガリレオガリレイもニュートンも必死になってイスラムを勉強したはずなのだ。ただ西洋が日本と大きく違っていた所は、日本のように最後の応用の部分だけを上手にやって経済的な発展を得るようなせこいことはしなかったということだ。イスラムに学び、最初の百年くらいの間でイスラムをいっきに抜き去り、その後、科学の体系を作り、和声音楽の体系を作った。日本が明治維新や戦後の焼け野原で、「いいところ取り」をしなければいけなかったのは、生きていく上で間違った選択ではなかったのかもしれないし、それが日本人の知恵だったのかもしれない。しかしその後日本が成熟国家になり、その「知」も成熟しないといけないこの20年くらいの期間を日本人は本当に無駄に捨ててしまった。今後、成熟国家として日本がどういったスタンスで「知」に向き合っていくかで、これからの日本の将来は大きく変わっていくだろう。

 昨日、エルピーダメモリ(株)が製造業としては最高額の負債を抱えて倒産した。DRAMといえば数十年前は日本のお家芸というか最先端分野でもあった製品だ。DRAM、液晶、撮像素子など、元々のアイデアは米国にあって、日本がその実用化(=いいところ取り)に成功したものばかりだ。現在、DRAMや液晶は韓国勢などとの価格競争に巻き込まれて競争力を失い、撮像素子はまだ競争力があるが、そのうちDRAMや液晶と同じ道を辿るのはほぼ間違いない。逆にソフトウエアのエンジニアでこれまである製品の組み込みソフトという閉じられた世界でしか生きられなかった人達にとっては、インターネットやクラウドといったもっと大きな広い世界で挑戦できるチャンスがこれからいくらでも出てくる。ソフトウエアに自信のある人や大望のある人は、独立して起業するなり、夢が実現できる会社に転職するなりして挑戦してみたらいいと思う。そんな中から、日本の本物の「知」が生まれてくることになっていくのかもしれないのだから。

by チイ


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 2

noga


日本語には時制 (tense) はない。
過去・現在・未来のそれぞれの世界を脳裏に描くことは難しい。
前世・現世・来世に関するインド人の教えも、日本語脳では定かでない。
「我々はどこから来たか」「我々は何者であるか」「我々はどこに行くか」といった哲学的命題は考えられない。

理想 (ideal) は、未来時制の内容である。
意思 (will) も未来時制の内容である。
理想がなければ、未来社会の建設計画もない。
意思のないところに方法はない。(Where there’s a will, there’s a way).

意思はなくても恣意 (self-will) はある。
建設的な話はできなくても、出来心はある。
問題解決の能力はなくても、事態を台無しにする力だけは持っている。
政治は遅々として動かない。人々の頭を閉塞感が襲う。

英語のリスボンシビリティ (responsibility) は応答可能性であり、自己の意思により現実対応策を考えて行使するものである。
責任は、自由意思により果たすところが大切なところである。
意思なくしては、責任は果たせない (責任はとれない)。とかく、この世は無責任となる。

ところが、日本人には意思がない。子供・アニマルと同様である。
場当たり的な行動にでるしかない。
未来時制の内容に確信は持てない。不安ばかりが募る。
ただ目的の遂行だけを求められるならば、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことになるのは必定である。

以前マッカーサ元帥は、日本人を12歳と評したことがある。
日本人は彼の評に立腹こそすれ、その意味を深く掘り下げることはしてこなかった。
我々は、浅薄である。秋入学の動きは、浅はかである。だから、留学生は、我が国を避けて英米に行く。
知的な人になるためには、英米の高等教育が必要である。これは国際的な判断である。
英米の高等教育は、奥の深い大人になるための更なる英語の勉強である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/






by noga (2012-03-06 06:19) 

アポロ

知の体系化とは、データベース化と考えても良いでしょうか?
by アポロ (2014-11-12 08:31) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

クラウドの未来日本の清流 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。