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極みモノ文化 [製品]

 日本は、極みモノの文化だ。何か一つの道を極めた人は、その道の達人と呼ばれ尊敬もされるし、企業などの製品開発においても、他社と差別化するために、どんどん極み的なモノになっていく。実際、色々な分野を見渡してみても、日本人が創るモノの最高傑作は、ほとんどといっていいほど極みモノになってしまう。

 私は、昔から芸術や製品でも、極みモノと呼ばれるようなものはあまり好きではない。多くの場合、極みモノにはある暗黙の了解(前提)のようなものがある。その範囲があらかじめ決まっているということだ。その限られた範囲の中で最高のモノを創るべく競い合う。

 日本人が極みモノを作ってしまうのにはそれなりの理由がある。それは、欧米人と日本人の研究開発のやり方を見てみればよく分かる。欧米の優秀な人は、研究開発において必ず基礎をやる。基礎の部分で大きなブレークを起こそうとする。そしてそれが成功すれば、応用もやる。応用も6~7割程度やってしまえば、それ以上はやらないで、次の新しい分野の方にチャレンジしていく。一方、日本人は基礎はやらない。いつも欧米人が創った基礎の応用から研究開発が始まる。持ち前の学習能力の高さであっと言う間にそれを吸収して、その応用を100%極めようとする。かくして日本人の創るモノの最高傑作はいつも極みモノになってしまう。

 欧米人が基礎をやろうとするのは、その壁を乗り越えられれば、一番大きなブレークが得られるチャンスがあるからだ。適応範囲を広げられたり、新たな分野を生んだり、唯一範囲を自由に変えられるチャンスがある。実際、応用は、たとえば何かの製品を作ってしまえば、それで終わりだ。基礎でブレークがあると、そこから新しい産業が生まれ、それに伴って多くの応用も生まれる。そしてその基礎のブレークが科学の分野で行われれば、それは多くの工学のブレークに繋がり、多くの産業を生み、その下に多くの応用が生まれてくる。

 極みモノばかりやっていると、その範囲は変わらないので、その中で一部の人にしか分からないような、難解、複雑なものになっていく。しかし、そういったものはいずれまったく予期していなかったような新たな分野が生まれたり、従来ある分野が融合されて新たな分野が生まれてきたりして、万人でも理解可能なよりシンプルなものへと置きかえられていく。

 世の中が大きく変わろうとしている時、従来の枠組みの中で、その極みモノをひつこくやることほど愚かなことはない。実際、歴史的に見ても、欧米との競争で日本が極みモノに固執しはじめると大体が負けパターンになってしまっている。日本人は受験勉強で限られた範囲の中で競わされるので、範囲というものははじめから与えられるもので、それにうまく適合することばかり考えてしまう。社会人になったら、それが欧米の創った枠組みになるだけの話で、一生受験勉強をやっているようなものだ。

 今まで日本人は、あまりにも基礎や世界の枠組みを創るような仕事に無頓着すぎた。なので、時代の変革期にあっても、将来に向けた新しいビジョンを自分たちでなかなか創ることができない。ましてや時代はネットを介して有機的な情報が結びついて、新たな知見が生まれてくるチャンスがたくさん出て来ている。そんな中にあって、あらかじめ範囲を限定して極みモノをだけをやるのは明らかに賢い方法とは思えない。新しい日本人は、極みモノを越える必要があるように思う。

by チイ


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