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ピケティにみる日本社会の不思議 [経済]

 今日本では、ピケティの「21世紀の資本」が大ブームになっている。先週にピケティ自身も来日して、講演会場は満員となり、時の人になっている感がある。私も訳本の「21世紀の資本」は買って読みたかったのだが、なにせ分量が多いので、とても読んでいる時間が取れないなと思って、池田信夫さんの解説本で済ませることにした。(歴史的な一冊なので、持っておく価値はあるかもしれません。また、英語のペーバーバックも出版されているので英語の得意な方はそちらを読まれた方がいいかも。高校生は英語と訳本の2冊買って、英語のリーディングの勉強にもなります。それをやったからといって、英語の試験で点数が取れるようにはならないと思いますが。)

 安倍さんの経済政策には「分配論」が完全に抜け落ちてしまっているので、ピケティの本で日本がこのことに興味を持つきっかけになるのはいいことだと思う。私が不思議に思うのは、何故「21世紀の資本」みたいなインパクトのある本が、日本の経済学者の中から出てこないのだろうか?ということだ。ピケティはアメリカで経済学を学んだが、それに納得できなかった。それでフランスに戻って、過去200年の経済学のデータを「数量経済学」の手法を使って解析して、この200年の間格差は広がる傾向にあるという結論に至った。

 ビッグデータを使った統計的な手法などは、道具を使うことの得意な日本人にはぴったりの仕事ではあるはずなのだが、なぜか日本からはピケティのような学者として気骨のある人は出てこない。今日本の経済学者がやっているのは、アベノミクスで、「リフレ派」と「反リフレ派」に分かれて、各々が自分たちの主張が正しいことを言い争っているだけだ。要はWASPの作った経済理論を、環境の異なる日本の経済状況に当てはめて、それが成り立つ、成り立たないのインプリメンテーションの議論を延々に続けている。

 今の日本の経済学者で「リフレ派」と称する人達の多くは、だれが見てもその道の「エリート」と思われる人達の顔ぶれだ。彼らにとって一番重要なのは、自分たちがWASPやユダヤ人の「リフレ派」の仲間と言うかクラブに属していることなのだろう。それこそが彼らが「エリート」である証であるのだろう。でもそういった価値観の中からはピケティのような人は生まれないし、日本の経済学者の「知のレベル」は三流だなと思ってしまう。これからは日本の経済学者の間では、おそらく分配論に向けたピケティのインプリメンテーションが始まるのだろう。

 これは何も経済学に限った話ではない。日本人は基本的には技術の分野でも欧米人が考えた理論のインプリメンテーションばかりをやっている。日本のイノベーションは、インプリメンテーションであるとも言える。知のレベルからイノベーションを起こすのは実際に難しいし、時間もかかってしまう。(それに知恵が足りなければ、いくら時間をかけても結局は徒労に終わってしまう。)実際、日本の工学部の人たちの多くは、「イノベーション=実学、インプリメンテーション」と思っている人は多いと思う。でも知のレベルからのイノベーションが起こった場合、工学だけのイノベーションは吹き飛ばされてしまう。

 日本の大学は、アカデミックが上で、実学を下に見る傾向があるらしい。しかし、実際には日本人は実学しかできていないように思うし、それこそが日本の強みだとも思う。だから逆に自分たちが出来ていないアカデミックを上に見る傾向があるのだと思う。もちろんどちらも大切であることに変わりはないのだが。

 池田信夫さんが、ブログでピケティの言っている「平等」と日本人の言っている「平等」は本質的に違うということを指摘していた。欧米の「保守」と「リベラル」の潮流の起源のような話もされていて、なるほどなあ~と深く感心させられてしまった。日本人はそんなことも知らないで、自分たちの勝手な解釈でピケティの平等をインプリメンテーションしようとしている。知に関しては気楽な民族だなあ~と思ってしまう反面、それが日本の凄さなのかもしれない。

by チイ


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