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EMアルゴリズムによる混合正規分布のパラメータ推定 [学問]

 書籍、続・わかりやすいパターン認識(石井健一郎・上田修功共著、オーム社)の第9章「混合分布のパラメータ推定」のp183~186に例題として出ている2次元の混合正規分布のパラメータ推定の実験を、実際にpythonで実装して確かめてみました。

 左上の5クラスターの2次元混合正規分布が推定する分布で、それをEMアルゴリズムで、iter=0〜20の繰り返しでパラメータ推定を行っています。下図では、その中のiter = 0(初期状態)、1、5、10、20(最終回)での分布の様子を示してあります。iter=0の初期状態のパラメータ設定などは、書籍の内容に合わせて行っています。iter=20回目では、元の左上の混合正規分布の形をかなり正確に推定できていることが分かります。

 左下の図は各クラスターの混合比(合計500データ)の推移を示したもので、初期状態の各20%から最終的には推定すべき(40%,20%,20%,10%,10%)に収束していっているのがわかります。右下の図は、対数尤度の推移を示したもので、繰り返し回数を決める目安になります。図中、折れ線で表示してあるのが対数尤度で、●はEMアルゴリズムのQ関数(対数尤度の隠れ変数の期待値を事後確率で置換したもの)を計算しています。

 EMアルゴリズムの式は、p180〜181の式(9.56)〜(9.59)を使っています。この本に出ている例題では、正規分布が1次元と2次元の場合だけですが、pythonにこの式を落とす場合には、一般にD=任意の次元でも対応できるように実装しておいた方が後々いいと思います。(もっともこのアルゴリズムはかなり有名なものなので、scikit-learnやOpenCVを探せば多分あると思います。)
 
 現在、人工知能の機械学習では統計学の知識は必須です。私は、統計学の教科書としては上に書いた、
「続・わかりやすいパターン認識」とその姉妹本の「わかりやすいパターン認識」の2冊を使っています。この2冊に関してはその数学的な記述や説明に関しては申し分ないのですが、如何せん実際のプログラミングの例題の記述は全くありません。この2冊の各章末に出ている例題をpython(注)で実際に実装したコードを掲載していてくれたらな〜と本当に思ってしまいます。
 
 そういうわけで、私はこれらの章末の例題で面白そうで、かなり難しそうなものを選んで、pythonで実装してみて確認しています。これをやると、実際のpythonのプログラミングの力はつきますが、でも時間がかかりすぎて全部やるのはとても無理です。人工知能は計算機科学です。数学が分かっただけではダメで、それを必ずプログラミングのコードに落とす必要があります。計算できることが正義、計算できてなんぼの世界なんですね。

(注)一般向けに、何のコードで実装するかの問題はあります。RやMATLABなどの統計学専用の言語を使うことも考えられますし、JavaやC++などのコンパイル言語を使っても良いのですが、現在はグーグルも使っていて、その開発環境も充実しているスクリプト言語のpythonで記述するのが、最も汎用性がありベストだと思います。

test_cut.pngtest0_cut.png

      2次元混合正規分布             iter = 0

test1_cut.pngtest5_cut.png

                     iter = 1                                          iter = 5

test10_cut.pngtest20_cut.png

                    iter = 10                                        iter = 20

figure_1_cut.pngfigure_2_cut.png

                事前確立の変化                                   対数尤度の変化

by チイ


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スパース・オートエンコーダー [学問]

 岡谷貴之著の「深層学習」(MLPシリーズ)のp67にあるスパース・オートエンコーダー(sparse autoencoder)のスパース正則化項の重みβと学習された特徴(重み)を可視化した画像を、実際にpythonで実装してMNISTデータを使ってやってみました。入力は28x28画素で、中間層のユニット数が100、活性化関数は中間層がReLUを出力層が恒等写像を用いています。重みはσ = 0.01のガウス分布で初期化して、下記の画像は学習後の出力層の方の重みを可視化した画像になっています。

 スパース正則化は、この本に載っているKLダイバージェンスの式(p62〜66の式(5.2)〜(5.4)の式)をそのまま使っています。また、ミニバッチ処理を行っているので、p66の式(式番号無し)も使っています。結果、β=0の場合は、通常のオートエンコーダーなので、その特徴は雑然としたパターンになっていて、β=0.1の時は「ストローク」パターンが、β=3.0の時は個々の数字の特徴をそのまま抽出しています。

 私のやってみたものでは、ρ(平均活性度)は本と同じ0.05に設定しているのですが、最終的(学習が終わった時点)にはβ=3.0の時がρ=0.06あたりに、β=0.1の時がρ=0.1(0.07〜0.12)あたりで均衡しました。(つまり、β=0.1の良い特徴の時、ストロークパターンで文字を表す場合は、大体100個の中間ノードの内、10個くらい組み合わせないと文字が表現できないと言うことなのでしょうか?←本当にこの理解で正しいのかな?)

 β=0の通常のオートエンコーダーでは、中間ノードはそれぞれ勝手に入力を表現しようとするので、中間ノードは絶えず活性化されていますが、(脳が癲癇を起こしているようなものか?)、sparse autoencoderの場合は例えば、ρ=0.05では100個の中間ノードの内、5個しか活性化されていなくて、あとの95個は活性化されずに眠っているので省エネにもなりとても効率が良いのです。(脳のニューロンの発火もスパースコーディングだと言われています。)スパースコーディングって、何か自然の摂理を表しているようで凄いと思いませんか?

 ちなみに、ここで行なっている、自己符号化器(autoencoder)による次元圧縮は、PCA(主成分分析)やICA(独立成分分析)でも行うこともできます。特徴を表す基底ベクトルの取り方が異なるだけです。

(学習後の100個の中間ノードの出力層の重みを可視化した画像)

list_img[000].png

 β = 0.0の場合

list_img[001].png

 β = 0.1の場合

list_img[002].png

 β = 3.0の場合

by チイ


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MNISTデータ認識でのCNNの信号の流れ [学問]

 最近オライリー・ジャパンから出版された、「ゼロから作るDeep Learning」の7章の最後のほうにある、MNIST(手書き数字画像データ)認識を行う、CNN(畳み込みニューラルネットワーク)での本線系の信号の流れを図にしてみました。8章の「ディープラーニング」はこのCNNの階層をもっと深くしたもので、ここに書いたCNNの構成が基本になっています。
 本線系の信号の流れをforward(順伝搬方向)、backward(逆伝搬方向)に沿って、Pythonコードの中身を読んでもらえれば、何をやっているかが視覚的によく分かるようになると思います。ソフトウエアだけをやっている人は、もっと抽象的に理解されている人も多いと思いますが、ここは、ハードウエアの本線系の信号の流れをイメージしてコードを読むと、理解がもっと確実になると思います。
 CNN(Convolutional Neural Network)を使った深層学習(Deep Learning)のアプローチは、画像認識分野では必須ですし、最近ではディープマインド社のアルファ碁などでも用いられています。現在この本で深層学習を勉強されている方も多いと思うので、情報共有の意味を兼ねて少しでもお役に立てればと思って掲載してみました。
・・・・・・・・・
ここから、

CNNフローチャート-Sheet1.jpg

CNNアーキテクチャー-Sheet1.jpg
 

CNN-forward-Sheet1.jpg

CNN-backward-Sheet1.jpg
by チイ

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実験の神様 [学問]

 今年度の3人の ノーベル物理学賞(青色発光ダイオード関連)の中で、中村修二は愛媛県の大洲高校出身の人だ。(愛媛県出身のノーベル賞受賞者は、これで大江健三郎と中村修二の2人になった。)大学は徳島大学工学部で地元徳島の日亜工業に就職したおかげで、今徳島は最先端の発光デバイス関連では、大学も企業も世界のトップクラスにあって、地域経済も彼のおかげでそれなりに潤っていると思う。

 それとは対照的に、現在の松山市の経済状況は中国四国地方の県都の中で最下位らしい。私の感じだと、松山には愛光学園があるので少なくとも四国の中での高校生の質はトップクラスのはずなのだが、それが地元経済に還元されない。私の世代でもそうだったが、愛光でも東高でも地元に留まる頭のいい人間はすべて医者になっている。これも受験競争の弊害だと思うが、医者は確かに人の命を救うという行為は尊いし、社会的地位も高いし、お金も儲かるのでそうなってしまうのだろうが、地元を経済的に潤すわけではない。いくら優秀な政治家や官僚や医者が増えたところで、彼らは市民の稼いだお金をもっていくだけなので、地元の経済を活性化させるわけでもない。これからの地方創生には中村修二のような人材は欠かせない。

 中村修二は、典型的な「エジソン・メソッド」の人だと思う。難しい、量子力学や物性物理のことなどそんなに深く知らなくても、自分が行った実験結果を素直に解釈して、そこからシンプルに考えて、実験装置をどんどん改造していく。そうやって彼は、高輝度の青色発光ダイオードの開発に成功した。青色の応用(製品化)の仕事がサイエンスの仕事というよりは、工学のエジソン・メソッドに合っていたのかもしれない。( 確か、中村修二が渡米する前までは、窒化ガリウム(GaN)系は格子欠陥の数が多くて、通常はフォトンがそれにトラップされて熱エネルギーに替わってしまうので何故高輝度に光るのか謎だったはずなのだが、理論的には解明されたのだろうか?)

 実験系では、理論系とは違って、学業成績はあまり参考にならない。それよりももっと重要なことがある。東大や京大の実験系の教授で、理論屋以上に理論のことをよく知っている人や、またそのことに興味がありすぎる人はたいてい実験屋としてはダメだ。また、優秀な院生や学生や企業人をたくさんかかえて、予算の分捕り合戦ばかりやって、自分で手を動かさなくなった大先生もダメだ。また毎晩付き合いで飲み歩いているような人も実験屋には向いてない。そのような人たちには、実験の神様は微笑まない。

 不思議なのは、中村修二が日亜を辞めた時に、日本国内のどの大学や企業からも誘いがかからなかったことだ。大学は別としても、企業からは引手あまたになるはずなのだが?基礎研究には金をかけないで、応用研究でお金になるすばらしい成果を出す。戦後の日本企業の成功パターンはすべてこのパターンで、中村修二のような人材は最も渇望されるタイプの人材であることは間違いないのだが。ムラ社会である日本の社会と闘うようになってから、中村修二の容姿は格闘家の「ヒクソン・グレイシー」に似てきたような気がする。

 結果、彼はアメリカの東大より上のカリフォルニア大学に行ってしまう。それ以上に私が驚いたのは、中村修二の下にはこの後すぐに全米の高校で一番の成績だった学生がついたらしい。仮に、中村修二が東大や京大の教授として迎えられたとしても、日本では灘高や開成で一番の成績の人間が彼の下につくことは絶対にないだろう。本当のプラグマティズムとは何なのか考えさせられてしまう。

 中村修二は、本当は、実験ではなくて数学や理論物理をやりたかったらしい。自身の発明も含めて、これまでの日本人の実験系のノーベル賞は、みな宝くじに当たったようなものだとも言っている。(セレンディピティーに出会えてそれを逃さなかったのは立派なことではあるのだが。) 私の推測だが、彼にこれからの日本がやるべきイノベーション分野を聞いたら、多分彼がこれまでやってきたような物性的な仕事よりも、コンピュータ・サイエンスやソフトウエアの分野をやりなさいと言うと思う。

by チイ


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技術的ピーク年齢 [学問]

 最近ソフトウエアなどの勉強をしていて思うのは、日本の学校教育は「技術的ピーク年齢」を考慮に入れて設計されているのかな?といことだ。一般にどんな分野であろうが、技術的ピーク年齢は早ければそれに越したことはない。またその範囲は、その分野でこれまでに人類意が知り得た全ての知識になると思う。つまり、自分の専門分野でこれまでに人類が獲得した全ての知識をマスターして、やっとスタートラインに立てる技術的なピーク年齢をどの辺に置いているか?ということだ。

 たとえば、クラシックのピアニストで世界的に活躍できるような人を目指すのであれば、その技術的ピークは、大体二十歳くらいだと言われている。(つまり、音大に入ってから技術的に弾けない曲があるとか、指使いがどうこう言われるようではその時点で駄目ということです。)ヴァイオリンなどのメロディー楽器の技術的ピーク年齢はもっと早くて大体13~15歳くらいと言われている。(ヴァイオリンの神童は中学生くらいでその技術的ピークを迎える。)

 この例と同じで、今理系の世界で、世界のトップクラスの中で仕事がしていきたいなら、大体どんな分野であれ二十歳くらいには技術的ピークを迎えてないと世界の中では戦っていけない。実際WASPやユダヤ人のエリートは、日本人が大学受験をしこしこやってい年齢で、理論の人であればその分野でそれまでに人類が獲得した知識は全てマスターして、ミレニアム問題やその一階層下くらいの問題を解いたりしている。コンピュータ関連だと、現在世の中にある全てのソフトウエアを一通り何でも自由に使いこなせるようになって、新しいコンピュータ言語や世界的に通用するプラットフォームを作ったりしている。彼らの技術的ピーク年齢はめちゃくちゃ若い。

 今日本の大学は入学時点ですでにその学部が決まっているが、その時点で自分の専門分野の知識量として、これまでに人類意が知り得た全ての知識の何パーセントくらいを習得しているかを考えた場合、彼らとの差は歴然としてしまっている。WASPやユダヤ人のエリートから見た場合、日本の大学受験生は、二十歳で慶應幼稚舎の幼稚園レベルのウルトラクイズで競っているようなものだと思う。(日本の受験は知の競争と言う意味では、日本人の中だけに変な序列を作ってしまうだけで、国際的な知のレベルからは完全にガラパゴス化してしまっている。)もちろん、全ての人が欧米のエリートの技術的ピーク年齢に合わせることはできない。しかし、国として平均的な技術ピーク年齢を早くする努力をしないと、理系の場合世界との差はどんどん広がっていくばかりだ。

 日本は工学が中心で、ハードのモノつくりの国だから、もともと新しい範囲の知識を自分達で創造しようとする意識があまりない。もっと端的に言ってしまうと、多くのエンジニアは、それらは一番になりたがり屋の欧米人がする仕事だと真剣に考えている人もいる。これまでに人類が知り得た全ての範囲というのもあまりピンとこない人が多いのではないだろうか?高校で習う数学や物理の範囲を体系的に俯瞰して教えてくれるような授業があれば、多分そのレベルの低さに驚くはずだ。(誤解を恐れずに言えば、それはほとんど何も学んでないのに等しいと思う。)実社会に出ても、既にある領域を適当に範囲を区切って、その中でモノつくりができればいいと考えている人がほとんどではないだろうか?

 私は、モノつくりは、人間の知のひとつの形態に過ぎないと思う。モノつくりは知の在り様に応じて、いくらでも変わってくる。モノつくりを第1義的な命題にしてしまうと、知での変革があった場合にそれに対応できなくなる。これは何もソフトウエアだけに限った話ではない。この先の知の変革で、モノつくりがハード、ソフト以外のものに変わっていってしまう可能性もあるわけだから。いずれにしても、技術的ピーク年齢は出来るだけ早い方がいい。実際、本当の戦いはそのピークを極めた後に訪れる。その人の学びの早さに応じて、飛び級や10代での大学や大学院入学など、真剣に検討した方がよい時代になって来ていると思う。能力が全く違った人を全て同じ学びの進捗基準で競争させるのはどう考えても馬鹿げている。

by チイ


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ベイズ統計~異端や亜流~ [学問]

 「ベイズ統計」を御存知だろうか?私が高校生の時に習った「確立」の授業の中に、確か「条件付き確立」というものがあったように記憶しているが、それをさらに一般化すると、「ベイズ統計」になる。「ベイズの法則」はイギリスの長老派の牧師であるトーマス・ベイズが着想し、フランスの数学者のラプラスがその数学的な完成を見た。統計学は大きく、「頻度主義統計」と「ベイズ主義統計」の2つに分類されるが、現在は、統計学の王道と言われた「頻度主義」よりも、時代の要請からベイズ統計が注目を集め百花繚乱の様相を呈している。

 思うに、今を生きるソフトウエアエンジニアの人で、ベイズ統計を使ったプログラムを一度も書いたことが無いという人はかなりやばいかもしれない。また「ソフトウエアリッチ」の時代といっても、クラウド側とは全く関わらないで、ハードエンジニアに命じられるままに、一製品の組み込みソフトのコーディング量を増やすだけの仕事をしている人もやばいかもしれない。ベイズ統計ともおおいに関係するが、多分21世紀のAVなどの弱電関連の家電を制するのは、クラウド側に、人間並みのパターン認識能力を持つ、音声や画像、自然言語処理などの並列分散処理のプラットフォームを構築できたメーカーになると思う。

 私が不思議に思うのは、製造業が、これまでの自然科学(natural science)を活用する「ハードウエアリッチ型」から、人工的な論理体系を活用する「ソフトウエアリッチ型」に移行したことで、何故日本がこれほど苦労しているのか?ということだ。もともと日本は科学ではなく、工学が中心の国なのだから、その基礎を科学ではなく工学に置いているソフトウエアなどは、本来日本人にとっては一番得意な分野であるはずなのだが?因みに欧米では「数学」や「統計学」は「natural science」ではなく、「formal science」や「applied science」に分類される。産業人のほとんどは、形式科学なんてやってられないという人がほとんどだろうから、応用科学 = 工学、エンジニアリング と考えれば納得がいく。また欧米ではコンピュータ・サイエンス(computer science)は「formal science」に分類されるが、日本ではそれは「applied science」に分類されて工学部の中にあるという奇妙な分類になってしまっている。(私は学問体系は欧米にそろえた方がいいと思うし、日本独自の体系に分類する意味は無いと思う。)

 ベイズの歴史は、統計学の歴史における所謂宗教戦争のようなもので、頻度主義者からはそれは「主観性の暴走」と見なされ、異端視扱いされタブー視され、その戦いは150年も続いた。今ではベイズはITの発展などとともに受け入れられ、多方面で活用、応用され、その有用性は万人が認めるところとなっているが、実はこれまでも幾度となくその有用性を証明してきた。ベイズは、第2次世界大戦中、イギリスのアラン・チューリングがドイツのエニグマ暗号を解読するのにも使われたり、またドイツのUボート探索にも使われ、戦時中華々しい成果をあげた。だが、最重要の軍事機密として封印されたりした結果、徐々に忘れ去られ、その後、保険や意思決定、原発事故の予見などで実力を発揮しはじめる・・・といったことの繰り返しがしばらく続いた。

 私は、異端や亜流って、結構好きだ。(もちろん、その程度や内容にも依るが)。たとえば、キース・ジャレットやチック・コリアやハービー・ハンコックなどは皆ジャズ界の異端児と呼ばれている。米大統領選でオバマ氏と戦った、ミット・ロムニー氏はモルモン教徒でキリスト教の異端だ。正しい答えは唯一つしかないように思われている科学の世界でも、実際には異端や亜流はいっぱいある。アインシュタインが一般相対性理論を発表した後、その亜流とも呼べるような理論がたくさん出てきたが、そのほとんどは自然の検証に耐えきれず消滅してしまっている。そんな中、一般相対性理論は、現在まで検証に耐え生き延びている。逆に言うと、異端や亜流を生まないようなものは、たいしたものではないとも言える。

 最近、文科省の道徳の本のことが話題になっていたが、日本の道徳の教科書って、普通の人なら貰って帰った日に数時間かければその日の内に完読できてしまうと思う。一方、聖書を旧約、新約合わせて完読しようと思えば、普通の人ならはやくても数カ月はかかってしまうと思う。それに最初の一回目は読んでも何が書いてあるのかちんぷんかんぷんといったところだろう。(だから牧師の注釈や説教が必要とも言える。)そしてその解釈の仕方で、色々な異端や亜流を生んでしまうし、それは世の常であり、一概に悪いこととは言えない。日本の道徳の教科書からは異端や亜流は生まれないだろう。私が心配するのは、これらの知識が形而上学的な知識としてその人の中に形成されていった時に、日本人の発想の源が皆ほとんど同じ考えで、その知識量といった点においてもあまりにも貧弱すぎるのではないか?ということだ。

 現在ベイズは、ベイジアンと言われる人々の間では、人間の脳がベイズ的に機能しているのではないかという仮説(ベイズ脳)や、ベイズ統計が完璧な思考機械を生みだせるのではないか?という議論にまで行っている。一方で言語学者のチョムスキーのような人は、人の脳はベイズのように統計的には考えないと言って、その方向性が脳科学を間違った方向に導いてしまうといったような意見もある。面白いなと思うのは同じユダヤ人の中でも、グーグルやマイクロソフトのようにベイズを実用的な価値の観点からどんどん使って行く人達もいれば、それに異を唱える人の両方の人達がいるということだ。ただ、ベイズはまだ若い。これからまだどんどん発展していくだろうし、私は実用的に使えるならどんどん使っていけばいいという立場だ。将来もっと根源的な理論が発見されて、ベイズがその近似でしかないことが分かったとしても、ぞの時、何故ベイズがうまく機能していたかが分かる訳だから。

31Q6CB1CEJL__SL500_AA300_.jpgシャロン・バーチュ・マグレイン著、草思社

by チイ


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日本の知の土壌 [学問]

 またまた硬い話になってしまうが、最近、「知の土壌」ということについて考えさせられることが多い。私は今の日本は全てを一度ゼロ・リセットできる大きなチャンスだと思っているのだが、安倍自民党は、それをしないでどんどん走りだしてしまった。それも未来に向けてではなく、過去に向かって。12月からはゼロ戦を題材にした映画「永遠の0」が封切られるようだが、今の世界の文脈の流れで言えば、「空母」を題材にしたソフトウエア的なシステム思考を論じたような書籍や映画がたくさん出ていてもおかしくないと思うのだが。

 結論から言ってしまうと、私は「日本の知の土壌」は明治の時代からずっと枯れてしまっていると思っている。一般的に、世界中から部分的に最高のものをいっぱい集めてきてそれで何かのシステムを作ろうとしてもうまくいかない。理由は、多くの場合、それらが階層構造になっているからだ。またそれらで無理やりに階層構造を作ろうとしてもほとんどの場合、うまくいかない。それらが階層構造として繋がる必然性がないからだ。日本の知は明治の時代から、ずっとこの問題をかかえたままの状態になっている。

 欧米の知は、それ自体でひとつの完結したシステムになっている。(もちろん、部分的にみれば必ずしもそれがベストというわけでもないと思うのだが、とにかく全体として最適化されているように思う。)ところが日本の知はそれ自体では完結していない。繋がらないものを繋がると嘘を言っているか、何がしかの方法でごまかしているようにしか思えない。

 糸川英夫が生前、「日本人は基礎研究ということを勘違いしている。日本人は地面に鉄骨を打ち込み、コンクリートを流し込むことが基礎研究だと思っているが、そうではなくて、基礎研究とは土そのもの、土壌の性質を調べることなのだが、日本人は全くそこを見ようとはしない。」ということをよく言っていた。また「今の日本の繁栄はその土壌の上に欧米が建てたビルを売り買いして、その賃貸料で儲けているようなものだ。」とも言っていた。(糸川がこれを書いた時は、Japan As No.1と言われた時代で、日本が液晶や撮像素子、ターボエンジンなどの実用化に成功して、日本は欧米の考えたものの実用化だけで十分やっていけるとだれもが思っていた時代である。)

 欧米のカテゴリーでは、宗教、哲学、サイエンスは全て土壌で、そこに鉄筋を打ち込みコンクリートを流し込むことが基礎工学、ビルの売り買いは応用工学といことになるのだろうが、日本には応用工学しかないということなのだろう。日本の工学部や企業のやっていることは、肥沃な欧米の土壌から蕾になった花をひっこ抜いてきて、自分の枯れた土地にそれを植え直して、そこに水や肥料を集中的に与えて花を咲かせて、一代限りで枯らしてしまっているようなものだと思う。

 欧米の知の土壌は豊かである。土地が肥えているので、そこには放っておいても豊かに作物が育つ。一方日本の知の土壌は枯れてしまっている。そこにはそのままではせいぜい雑草くらいしか生えない。残念だけれども、これが明治以来の日本の知の土壌の現実だと思う。これまでのように、一番最後の部分(技術的な経済の成功を求める)だけを、しゃかりきになってやるより、これからは日本の知の土壌を時間がかかっても豊かにする方向でやっていった方が結果として手にするものも多くなると思うのだが。

 このことは「リベラル・アーツ」にも関係していると思う。欧米の名門大学で国際的な教養人が育つのは、結局は人間形成において、この土壌の部分が形作られるからだと思う。前にも書いたが、リベラル・アーツの中には4科があり、その中には音楽も含まれています。ちなみに他の3科は、算術、幾何、天文学です。天文学はニュートンの天体の運動からはじまり、アインシュタインの一般相対性理論の舞台となり、最近ではビッグバンやインフレーションなどの宇宙論として今でも物理の中心を成しています。音楽と天文学が同じ土俵の上で語られる。この意味が分からないと、日本の大学は欧米の大学には決して追いつくことはできないと思います。

by チイ


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日本の知の後進性~日本の知は2周回遅れになろうとしている~ [学問]

 最近、日本の大学入試について色々なことが言われている。アメリカのようにSAT+面接+小論文などで、もっと学生の総合的な学力や個性を見た方がいいと言う人もいる。しかし、現在、私学の雄と言われている、早稲田や慶應では入学者の半数近くがAO入試で選抜されるようになってから、学生の学力低下が問題になっているそうだ。私は、入試(選抜試験)はあった方がいいと思う。当たり前の話だが、理系の場合、基礎学力が身についてないような者を合格させても仕方がないからだ。しかし、日本の場合、そこで問われている学力に大きな問題があるように思う。

 私が一番強く感じる日本の教育の問題は、日本の知は、青天井のようにどこまでもまっすぐに伸びていかないことにあると思う。慶應幼稚舎の入学試験では、「幼稚園の範囲」で、大の大人でも間違ってしまうような人工的に作られた問題を解かされる。私立の名門中学の入試では、「小学生の範囲」で、鶴亀算や植木算をわざと人工的に難しくした難問を解かされる。大学入試では、「高校生の範囲」で、ニュートン力学にも達していないような幼稚な範囲で超ウルトラクイズを解かされる。日本の入学試験は、ものすごく狭くて幼稚な範囲で、人工的にものすごく難しくした問題を解かされるのだ。

 ここでちょっと考えてほしいのは、今のグローバル化した世界の中で、その道で世界の第一線級の中で仕事をしていきたいのなら、技術的な事に関してはほとんどのものが二十歳くらいでピークに達していないと世界の中では戦っていけないという事実だ。たとえば、今、数学や物理の理論で世界のTOPクラスの中で仕事がしていきたいのなら、大学入学時点で、今の日本の大学院レベルに達してないととても話にならない。実験系を志しているような人でも、大学入学時点で、最低でも大学の一般教養課程程度の数理はマスターしていないと、世界の中では戦っていけない。当たり前の話だが、大学入学時点で実験系の基礎的な論文を読めるためには、最低でも大学教養クラスの線形代数や線形微分方程式くらいは知ってないと読めないからだ。

 今、日本の大学入試が、ニュートン力学前のレベルで競っているということは、たとえて言えば、ニュートン力学が世界の最先端であった時代に、方程式のその前の鶴亀算や植木算のレベルで競っているのに等しい。(要するに、日本の知は世界のレベルから2周回遅れになっているということです。)私が文科大臣だったら、理系の科目については、大学の一般教養課程でやっているものは、全て高校までにやるように変更します。理由は簡単で、そうしないと大学入学時点で科学論文のひとつも読めないからです。今の日本の若者の最大の不幸は、頭が一番活性化している時期に、まっすぐにどこまでも青天井に伸びていかないといけない時に、ものすごく幼稚で狭くて時代遅れになった範囲の中に閉じ込められて、そこで2流、3流の学者が人工的に難しく作った問題に付き合わされることです。本来はできるだけ早く技術的なピークに達して必要条件を満たして、後は十分条件である「自然の提出する問題」を解くべきなのです。

 今、それでも日本がなんとかやれているのは、東大や京大の中に1割くらいが中高の時代に大学院レベルまで勉強できている人がいて、数割くらいが大学の一般教養課程くらいまで勉強できている人達がいるからだと思います。しかし、これが出来るのはIQが+3σ以上あるようなほんとうに恵まれた頭脳を持った人だけです。私を含めて普通の頭脳の人がこれをやっても、高校の勉強を含めて両方が駄目になるだけです。しかし、日本のエリートも、受験+語学(普通、優秀な人は最低でも2、3ヶ国語くらいは習得している)で欧米のエリートの2倍は勉強しないといけません。そういう意味では、日本のエリートも窒息させられているのです。普通の人を含めて、もっと素直に知の青天井を目指せるような環境にしてもらいたいものです。

 このような入試の仕組みになっていることは、日本がまだ発展途上にあった時代の、西洋が既に作った枠組みの中で、実際に応用、改善してお金になるモノを作って、国に還元しなさいということのあらわれだと思う。この教育方針は、つまみ食いして、単品モノのハードを作っていればいい時代では意味があったのかもしれないが、現在のグローバル化したソフトウエアが中心になってきた時代においては、完全に時代にそぐわないものになってきている。アメリカなどで実施されているSATのように、その時代に即した内容を盛り込んで、できるだけ広い範囲で、基礎的な問題を問うといった方がずっと理にかなっていると思います。私が強く思うのは、日本人はもっと素直になって「自然が提出する問題」(人間が入試のために作る問題ではなく)を解いた方がいいと思うし、できるだけ早くそこへ到達することを目指した方がいいと思う。今の日本の入試はできそこないの人工知能のようなものだ。

 今話題になっている憲法の改正問題でも同じことが言えると思う。今の日本国憲法は、当時のアメリカの普通の有識者が数名でその原案を1週間くらいで作ったといわれている。それは戦勝国に一方的に押しつけられたもので、確かに一部直した方がいい部分もあるのかもしれない。しかし、そんなことは小学生でも考えるし、やっていることはつまみ食いと同じだ。もっと大切な事は、あの憲法は当時の日本の文系の最高の頭脳と言われた、東大や京大の憲法学者が何年かかっても絶対に作れなかったということだ。世界観や文明観がまったく遅れているのだ。それはたとえて言うと、非線形科学の時代にニュートン力学の範囲で憲法を作っているようなものだ。日本が本当に憲法を改正したいなら、日本自身が世界の最先端の理念に基ずいた憲法を作成できるようになってからでも遅くないと思う。

by チイ


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日本は成熟国家だというが「知」だけが唯一成熟していない [学問]

 最近、今の日本の閉塞感を打開しようと、明治維新に習って、「私塾」や「日本八策」といったようなものが多くの識者から発表されたりしている。また、東大が5年後をめどに秋入学にするとか、それに対して京大の学長が朝日新聞で論説を述べるなど、大学も少しずつではあるが変わろうとしている。産業界でも、日本の就活のシステムを見直したり、日本の成熟国家としてのメリットを生かした戦略を唱える人も多い。しかし私には、日本は成熟国家だと言われるが、その中で唯一日本の「知」はまだ成熟国家とは言えない、ある大きな壁があるように感じる。

 その「壁」とは何なのだろうか?それは多分、日本が明治の開国以来、自らが進んで「知の体系」を作って来なかった、あるいは意識的にそれを作らなかったことに関係しているように思える。日本は「知」に関しては、「つまみ食い」=「いいところ取り」なのである。それができるということは、日本人が世界一の学習習得能力があるという良い面でもあるのだが、その裏返しとしてこれを成熟国家になってもずっとやっているので、いまだ日本人は自らの力で汎世界的に通用する分野で「知の体系」が何一つ作り出せていない。「いいところ取り」なので、いつも単発に終わってしまって、全体の大きな「流れ」が作り出せていないのだ。学問にしても技術にしても「体系を作る」とは、これまでになかった新たな領域の基礎を作るということだ。そして、そういった領域が次々に生まれてきて、ある時それらの領域がさらに繋がって、従来の分野も含めてさらに大きな体系となるべく流れていく。そういったダイナミックな体系の流れを日本人はいまだ作れていないのだ。

 多くの人も気付いていると思うが、インターネットの時代になって、単品モノのハードウエアだけ作っていればよい時代は終わった。モノが中心だった時代は、「いいところ取り」で、短期間に最後の応用の所だけを上手にやっていればうまくいった時代は終わって、ソフトウエアやシステムが中心の時代が到来した。昔から、日本人はよく目から盗むと言われる。ソフトウエアも、数十年くらい前であれば、数千から数万ステップくらいのボリュームであれば、ちょっと気のきいた人で根性があれば半年~1年間くらいかけてソースコードを解読すれば、そのエッセンスを習得することは可能だったが、今ではOSなどのソフトウエアは、最低でも数百万~1千万行くらいのボリュームになっていて、一人の人間が一生かかっても解読できる量ではなくなっている。現状のソフトウエアやシステムなどは、もう「いいところ取り」ができない状態になってしまっているのだ。自らが主体的に、創造的にその体系を作っていくしかなくなってきている。

 大学にしても同じことが言えると思う。大学の一番の存在理由は、「知の体系」を作ることだと思う。しかし、日本の大学はそれができていないので、欧米の優秀な学生で東大や京大に入学したいという人はほとんどいない。当の日本人はといえば、欧米が数百年以上も前に作った学問を、人工的に難しくして競い合わせるようなことをいまだにやっている。要は、もうすでに終わってしまった学問の超ウルトラクイズである応用問題のできる人材をいまだに作っているわけで、新しい学問の体系を作れるような人材を輩出する教育システムになっていないのだ。「坂の上の雲」のたとえで言えば、秋山真之が日本海海戦でT字戦法を編み出して成功したものだから、その後艦隊決戦のありもしないような人工的に難しく作った応用問題で人選した士官が、第2次世界大戦では、既に空母の時代に入っていて、全くそれに適応できなかった、という現実と同じような状況に陥っているのだと思う。

 これはあまり大きな声で語られることは少ないが、西洋でルネサンスが始まった時、イスラムは数学、天文学、物理、音楽など全ての分野で西洋を凌駕していた。丁度日本人が明治維新に西洋の学問を必死になって勉強したように、ガリレオガリレイもニュートンも必死になってイスラムを勉強したはずなのだ。ただ西洋が日本と大きく違っていた所は、日本のように最後の応用の部分だけを上手にやって経済的な発展を得るようなせこいことはしなかったということだ。イスラムに学び、最初の百年くらいの間でイスラムをいっきに抜き去り、その後、科学の体系を作り、和声音楽の体系を作った。日本が明治維新や戦後の焼け野原で、「いいところ取り」をしなければいけなかったのは、生きていく上で間違った選択ではなかったのかもしれないし、それが日本人の知恵だったのかもしれない。しかしその後日本が成熟国家になり、その「知」も成熟しないといけないこの20年くらいの期間を日本人は本当に無駄に捨ててしまった。今後、成熟国家として日本がどういったスタンスで「知」に向き合っていくかで、これからの日本の将来は大きく変わっていくだろう。

 昨日、エルピーダメモリ(株)が製造業としては最高額の負債を抱えて倒産した。DRAMといえば数十年前は日本のお家芸というか最先端分野でもあった製品だ。DRAM、液晶、撮像素子など、元々のアイデアは米国にあって、日本がその実用化(=いいところ取り)に成功したものばかりだ。現在、DRAMや液晶は韓国勢などとの価格競争に巻き込まれて競争力を失い、撮像素子はまだ競争力があるが、そのうちDRAMや液晶と同じ道を辿るのはほぼ間違いない。逆にソフトウエアのエンジニアでこれまである製品の組み込みソフトという閉じられた世界でしか生きられなかった人達にとっては、インターネットやクラウドといったもっと大きな広い世界で挑戦できるチャンスがこれからいくらでも出てくる。ソフトウエアに自信のある人や大望のある人は、独立して起業するなり、夢が実現できる会社に転職するなりして挑戦してみたらいいと思う。そんな中から、日本の本物の「知」が生まれてくることになっていくのかもしれないのだから。

by チイ


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