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問題解決シンドローム [社会]

 最近、ある雑誌に、妹尾堅一郎氏の「問題解決シンドローム(症候群)」という記事が掲載されていた。妹尾氏はイノベーションやマネジメントに関する専門家で、このブログでも以前にも紹介したが、これら関係の数多くの書籍も執筆されている。「問題解決シンドローム」は、日本の社会で受験を経験している者ならだれでもかかっている思考の病である。一般に難関大学を出ている人ほどその病の症状は重い。というか、明治維新、戦後の高度経済成長期と、明治の開国以来ずっと日本人がかかっている思考の病である。

 妹尾氏は、「問題解決症候群」を「問題と唯一解のセットを所与とする思考の病」と言っている。その特徴は

症候1) 「問題」は与えられるものだ、と思うこと。

症候2) 与えられた問題には必ず唯一の正解がある、と思うこと。

症候3) その唯一の正解は誰かがすでに知っていて教えてくれる、と思うこと。

 前々回のブログで、「部分最適」のことを書いたが、この思考方法の欠点は、思考として自己完結していないという点だ。まず、自らが問題を設定しないので、「問題設定能力」が身につかない。要するに、もう頭の段階でつまずいているわけだ。また立場ごとに異なる、多様な選択肢を探し求める「探索学習」型の思考方法も身につかない。その結果、自ら考え、自ら行動する力が開発されないので、想像力を磨けず、創造力を発揮する能力が鍛えられなくなってしまう。

 今、日本の企業が一番欲する人材は、大学入学時点での学習習得能力だけだそうだ。(つまりどれだけ難関な大学に入学できたかということ。)しかも大学には行かないで、そのまま企業に入社してくれるのが一番いいそうだ。つまり、どんな人材になってほしいか(問題)はその企業側で与えるということだ。これはある意味当たり前の話で、もし自分が起業しようとした場合、どういった人材が欲しいか考えてみればわかると思う。自分の言ったことを文句を言わないで、てきぱきとやってくれた方がいいに決まっているし、自分のやり方にいちいち文句を言ってくるような人は優秀でも嫌われる。ただこの人を使う、使われるの階層が一番上まで行ったとき(多分それは政治の世界の話になると思うのだが、)、そこでの問題設定もだれか他の人にやってもらわないと決められないということになってしまっているのが今の日本の現状だろう。個別の問題に関しては、あれやこれやと議論するが、将来日本をどういった国にしたいのかというヴィジョンが全然見えてこない。

 日本人は、他の民族に比べて、学習習得能力がずば抜けて高い。だから、自分の頭で考えるよりも、学んで習得してしまったほうが早いし、効率がいいのだ。ただ、それだと、どうしても思考方法が後追いで受身になってしまうため、イノベーションに必要な、「問題設定」や「探索学習」といった前向きの思考には向いていない。現在のように産業生態系そのものが変化をしている時には、何を問題とし、何を答えとするか、それ自体が問われている。混沌とした状態の中で求められる思考が、従来の問題解決型ではないことを意味する。

 前にも書いたが、科学が要素還元論が主流だった時代は、「部分最適」は不十分であっても社会の中で、それなりに機能してきた。その時代、「問題解決症候群」も特殊な状況下(明治維新の西洋列強に「追いつけ・追い越せ」や戦後の米企業を手本とする「追いつけ・追い越せ」)では、有効に機能したといえるのだろう。しかし、非線形科学の時代の到来とともに、その思考方法の問題が顕になってきた。非線形科学では思考は、部分最適では駄目だからだ。思考として自分の中で完結している必要がある。日本は、いつこの「問題解決症候群」という思考の病から脱却することができるのだろうか?

by チイ


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